それから、渡辺氏は、戦時中に沖縄でいろいろ見て考えたことについて、また、実際に戦争の中で一人の人が死んでいくその時に、どういう死に方をするのか、周囲の人たちがそれをどういうふうに見守っていたかについて語った。
「沖縄に着いたのは(1945年)1月25日。鹿児島を出たのが1月15日。沖縄の陸上戦が始まったのが4月1日。その数日前から沖縄の離島のほうで米軍の上陸が始まっていた。沖縄に着いた時、もうこれで敗戦ではないかと思った。船窓を開けたら目の前に海防艦が魚雷で頭の部分を壊され、砕かれた艦首が見えて、ちょっとギクリとした。私も海防艦に乗ることになるんだろうと思っていたから、自分の成り行きがこういうことになるんだと思って、ギクリとした」
「埠頭に上がると、那覇の街がなくなっていた。那覇の街はその前の年の10月10日に空襲を受けて全部焼けた。海のそこからずっと向こうが見えた。小高い丘が全部焼野原になっていた。もう沖縄の戦争は負けても当然だというふうに思った」
また、渡辺氏は、「私も含めて日本人が沖縄のことをどう考えているのかということを考えざるを得なかった」と話した。「沖縄の先島(諸島)という離島で、おさらばするつもりであいさつに行ったら、向こうの人が『うらやましい。時々日本は逃げられるじゃないか』と言う。そこで私はハッとした。つまり彼らは、沖縄や沖縄の離島を日本ではないと思っている。私は沖縄を差別していないつもりだったが、それと似たような感覚が自分の中にもあることに気が付いた。そういうことがあって、その時から、沖縄のことを特に感じなければならないんだと自分に言い聞かせた」
沖縄が米軍に占領されてから、渡辺氏は沖縄のハンセン病患者の人たちとの関わりがあり、それ以来沖縄へ毎年行っているという。
「沖縄の人たちのことを深く考える機会が与えらえていることは幸いだと思っている」と、渡辺氏は話す。
1945年4月の初め、渡辺氏が乗っていた船は、沖縄の石垣島まで特高艇を運んでいく船の護衛をして、石垣島まで行った。それからすぐ帰ってくるつもりだったが、石垣島に着くと、石垣島の守備隊艦長から「自分たちにはお米がないので、あなたのところにあるお米を全部譲ってくれ」と言われ、お米を降ろしに船で台湾に行った。その時、4月1日に沖縄で地上戦が始まり、渡嘉敷島に米軍が上陸した。
石垣からまっすぐ帰ることができず、台湾でお米を積んでそこから帰ってくるのに中国の揚子江の河口を北上し、山東半島の沖から朝鮮南部を目指したが、そこで船が魚雷を受けて命中し、船団が全滅した。渡辺氏はその船団の船の一つが実際に沈んでいくところを見たという。「他の船も沈んだのは確かだが、霧の中でつかみどころがなかった」と渡辺氏は語った。
船が沈んで海上に流れた人たちを救援する作業をし、遭難現場でまだ生きているらしい最後の一人をすくい上げて船は現場を去っていった。その後、渡辺氏は看護兵曹に立ち会ってその遭難者の一部始終を見ていた。遭難したのは15歳の少年兵でまだ子どもだった。助けられた時からもう息も絶え絶えで、心臓はかすかに動いていた。強心剤を打ってマッサージをし、それから人工呼吸をしたが、その少年兵は死んだ。看護兵曹はその少年兵の小指の先を切って、死んだ少年兵の名前と、いつどこで死んだかを文書に記し、水葬をし、死体をくるんで浮き上がらないようにおもりをつけて、死体を海に沈めたという。
「一人の人のために何人もの人が精魂込めて介抱してくれた。そして死んだ後、できるだけ手厚く葬った」と渡辺氏は語った。
「当然それはすべきことではあるが、それによって死者の死が意義付けられることにはならない。その死者が生じたことによる悲しみが慰められたということにはならない。戦争で死んだ人が出た場合に、そこに生き残った人たちは、こういう死をもう二度としませんという誓いをもってその葬りを見る。そういうことをしない限り意味がない。そういうことを経験してきた私としては、あのような意味のないむなしい死を遂げる人がいないようにするために、力いっぱい頑張っていくほかない。そう思っている。私のその思いに共感していただきたい」と渡辺氏は結んだ。(続く:戦争で一番苦しむ人々を忘れてはいけない)