日本キリスト教会東京告白教会前牧師の渡辺信夫氏(91)が6月29日、軍港都市としての歴史を持つ神奈川県横須賀市で、「私はどうして戦争反対のために生きるのか」と題して講演を行った。
日本キリスト教会横須賀教会で開かれたこの平和講演会で、学徒出陣で1943年12月に横須賀第二海兵団に入団した渡辺氏は、約50人の聴衆に対し、出兵先だった沖縄の海で多くの戦死者を目の当たりにした自らの戦争体験などを語った。その上で、「意味のない死がないようにすることを生き残った者らが誓う以外に、戦争で死ぬ人の死を意義付けることはできない」と強調した。
渡辺氏は講演の初めに前置きとして横須賀について語り、「横須賀の街に来るのは久しぶり。いろいろと複雑な思いが胸に去来する。横須賀というと心に残るのは海軍の街という印象。旧国鉄の横須賀駅を出るとすぐのところに海軍の桟橋があり、その桟橋の根元に『国威宣揚 東郷平八郎』と書いた石碑が建っていた。この桟橋から出ていく将兵は、外に出ていって国威を宣揚するのであるということを心に刻んでいたのだと思う」と述べた。
「もっとも、私が海軍に入った時に、日本海軍は国威を宣揚するなどということはとてもできないような状態だった。敗戦に次ぐ敗戦を経験していた。そして、そういう敗戦のことは国内にはほとんど報道されていなかった。部内の者は知っていたが、一般国民は輝かしい戦果を挙げていたかのような感じをもたされていたわけだ」と渡辺氏は付け加えた。
「敗戦後、横須賀はすっかり変わったなと思った」と渡辺氏。「しかし、私にとってはずっと気になる街だった。半世紀以上たってから、横須賀の港内を船で周ったことがあった。今もここはやっぱり軍港なのだなと感じた。昔の帝国海軍の艦船よりもずっと性能の良い軍艦が並んでいる。日本国憲法の下においてはそんな軍艦があるはずはないのだが、堂々と性能の良い軍艦が並んでいるのを見て、複雑な気持ちにならざるを得なかった」と語った
「もう一つ、日本の自衛隊の艦船よりももっと性能のいいアメリカの艦船がある。原子力空母の母港として横須賀の港が使用されている。そこで危険な原子炉が(核燃料を)燃やしている。そこで行われているのはゾッとするような出来事だ」と、渡辺氏は続けた。
また、戦後、1951年に設立された初期の日本キリスト教会には、横須賀教会の竹本宗定牧師、小川武満牧師、そして渡辺信夫牧師という3人の非戦の牧師がおり、横須賀教会は日本キリスト教会の創立時から平和の志をもっていたとも述べた。
1923年に大阪で生まれ、キリスト者の家庭に育ち、1949年から牧師を務めてきた渡辺氏は、「同時に教会の内外で平和のことについて語り、それが教会に仕えている者として当然なすべきものであるというふうに考えてきた」と言う。「牧師であることと、平和を守護すること。この二つは、私にとっては同根から出たものだ」と同氏は語った。
渡辺氏はその理由について、「戦争に参加したことについて私は戦争の中で反省し始めたのだが、戦後、その反省をはっきりさせて、かつてお国のために死を覚悟して生きていく、それがクリスチャンとしてなすべき生き方だと思っていた、その考えを放棄して、これからは平和のために生きる、そして平和の福音を宣べ伝える、そういう使命に生きようとした」と説明した。
渡辺氏は現在、台湾の元「慰安婦」の裁判を支援する会の代表や、原発メーカー訴訟の法人理事長を務めているほか、イリアンジャヤの地震災害の時の援助活動、ハンセン氏病の人たちの支援、野宿者の支援活動など、多岐にわたる活動をしてきた。
渡辺氏は、「戦争が済んだ後、人々はもう平和である、戦争はもう過去のものになったんだというふうに考えている時に、私は、幸か不幸か、戦争がまだまだ続いている、少なくとも潜在的な形で戦争の準備がされている。そして、終わったということになっている戦争の後始末がほとんどついていない。そういうことに目覚めさせられるところに立たされることが多かった」と言う。
渡辺氏は戦争が終わった後、怪我もなく帰ってきたが、戦争の後始末のために努力すべきであると考え、再召集されている長崎県佐世保市の針生島に行った。予備役で召集されたが、召集解除になっており、もう出てくる必要はなかったのだと言われ、帰ってきた。しかし、とても戦争が済んだなどとは言っていられない問題があり、その一端に気が付いたという。
「それの他に、戦争の後始末がついていないということが次から次へと分かってきた。私はそれらのことにいちいち立ち向かっていくことは実際のところできなかったが、しなければならないことはあるということは気が付いているので、そういうことをいろいろやってきたことは事実だ」と述べた。
その上で、渡辺氏は、「戦争の後始末を日本がとっていない。だから、日本人の誰かが代わってそれをやらなければということでやっている」と、戦争反対のために生きてきた理由を語った。(続く:自分をだまし、意味のない死を意味ある死にしてきた)