視聴者をつかんで離さない手法として、テレビドラマはしばしば冒頭から刺激的な映像や言葉を私たちに投げかけてくる。近年の日本のドラマのひとつの傾向というべきか、時にはヒロインさえ、ひと癖ある問題の人物として描かれる。
それが単なる話題づくりと集客のためではないことを、視聴者たちは望んでいる。社会のゆがみや悪をリアルに描くとしても、それはテーマを深く掘り下げるためであり、結末には予想もしない高みに昇華されることを、私たちは期待するものだ。
50年前の『氷点』から受け継がれた「清い心の少女」を採用し続ける韓流ドラマは、時代錯誤的なのだろうか? 韓国はクリスチャンが多いから、清く真っ直ぐなキャラクターとストーリーを好むのだ、という意見もあろう。そう正しいばかりの主人公では面白みがないし、刺激的なドラマにならない、という声もあるかもしれない。
しかし、あのように実直な理想を迷いなく提供し続けている韓国ドラマが、今、アジアの国々と人々の間で大いに受け入れられている。日本においても、美しく清々しく骨太な韓流を熱く支持する人たちがいる。
そこにある真摯な求めと渇きについて、私たちは今一度、よく考えてみる必要がありそうだ。とりわけ、ドラマや映画の制作スタッフ、小説や漫画の作者に、意識の高さと奥行きが問われるのは言うまでもない。
三浦綾子が、もし今の日本と韓国のドラマを観たとしたら、それぞれどのように評価するだろう。
歴史認識や領土問題を起因として、日韓関係は心痛む状態が続いている。北海道旭川市にある三浦綾子記念文学館を訪れる韓国人旅行客は、2年ほど前までかなりの数に上っていた。来館者が自由に書き込める「思い出ノート」には、しばしばハングルでの書き込みがされていた。
高校生の時に『氷点』を読んで感動したという人、苦難に遭う中で三浦さんのエッセイに触れて救われたという人、三浦作品をきっかけに日本に興味を持ち、日本の大学に留学したことを報告する女性もいた。しかし、竹島・独島問題を契機に、韓国人の姿とハングルの書き込みは目に見えて減っているという。一方で、最近は台湾からの来館者が増えているそうだ。
三浦綾子が残した次の言葉を、今いちど噛みしめておこう。
――私は、国も誤った方向に行こうとしたら、命を賭してでも、「それはいけない」と言うだけの勇気を持たなくちゃいけないと思っています。自分の国さえ守られていれば、自分の国さえ得になれば、隣の国は隣の国というんじゃなくて、隣国が与えられているというのは、隣国を愛するために与えられているのであって、戦う相手として与えられているんじゃない。(『なくてならぬもの』より)
(ライター・高嶺はる)