マルタにて
使徒の働き28章1節~10節
[1]序
今回から使徒の働き最後の章28章を味わいます。
27章の最後の部分で見たように、座礁を経験したパウロや彼と同船していた人々は「みな、無事に陸に上がった」(27章44節)のです。彼らは一生懸命泳いだり、必死に板切れにつかまって上陸したのです。二週間に渡り暴風に激しく吹きまくられ、漂流した後に。精も根もつき、疲れきり、上陸してもなお、身に危険が迫る状態でした。
彼らが上陸したマルタ島の人々は、沖合はるかに座礁した船を見、人々を迎える準備を進めていたに違いありません。上陸して来た人々に対して親切にし、彼らが必要とする「火をたいて」、心からもてなしました。
このマルタ島での二つの経験をルカは記しています。
第一は3節から6節で、上陸して来た人々をマルタ島の人々がもてなす最中、パウロの身に起こったことです。
第二は7節から10節で、島の首長ポブリオの父の病がいやされる出来事です。この場合にも全体としてパウロに焦点が絞られています。
[2]揺れ動く評価
ずぶ濡れになって上陸して来た人々のため、マルタ島の人々が火をたいてもてなしをしている最中、パウロは自分のできることを精一杯なし続け、周囲から柴をたばねて来て火にくべていたのです。
(1)「人殺しだ」
ところが、パウロが集めていた柴の中から、寒さのため冬眠していたと思われるまむしが熱気ではい出して来、パウロの手に取り付いたのです。マルタ島の人々は、この場面を目撃して、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と判断し、評価しました。
彼らの言葉には、偶像礼拝の悪影響を受けているとは言え、それなりの真理契機が含まれています。この世のすべてが秩序なく、でたらめだとは言えない。偶像礼拝の習慣に支配された生活の中からの表現とは言え、この世を統治する神の義について不十分ながら指し示しています。
しかし彼らの判断・評価には、大きな問題もあります。パウロの身に起こった一つの現象だけを見て速断しています。パウロの全生活・全生涯を十分検討し、慎重に判断する必要があります。
第一、神の義の統治は、すべての人に明白とは限らない事実を教えられます。ですから、ある人々の身に起こった不幸や災難に見えることだけを根拠に、その人を罪人だと速断するのがいかに危険であるか、ヨブ記に見るヨブの友人やヨハネの福音書9章1節以下に見る弟子たちの主イエスへの質問の例を通しても教えられます。
(2)「神さまだ」
マルタ島の人々は、パウロの手がすぐにふくれ上がるか、「または、倒れて急死するだろうと待っていた」のです。ところがその通りにならないと、パウロを人殺しだと速断した事実を忘れたかのように、極端に考えを変え、「この人は神さまだ」と言い出したのです。このような激変する人々の評価に左右されず黙々と主の御前に与えられている使命を果たし続けるパウロの姿を見ます(参照・Ⅰコリント4章1~5節、Ⅱコリント6章8~10節)。
[3]ポプリオの父のいやしをめぐって
(1)7節以下
島の首長ポプリオは、自分の領地にパウロの一行を招待し、当時の習慣に従い三日間手厚くもてなしました。
ローマの権威を代表している百人隊長ユリアスが主客として招かれたのでしょうか。また6節までに描かれている出来事がきっかけでパウロに対する敬意がマルタの人々の間で生み出されていたと推察できます。
いずれにしても、ポプリオの行為は旅人にもてなすことで、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」(ヘブル13章2節)との聖書の教えに一致します。
(2)ポプリオの家庭の問題
ポプリオの家に招かれたパウロは、もてなしを受けただけではありません。彼の父の病に直面します。そこでパウロは、ポプリオの父のもとに行き、祈り、彼の上に手を置いたのです。すべての力は、パウロ自身からではなく、主なる神から与えられている事実を示しています。このように他の人々に開かれた家庭に祝福が与えられます。さらにポプリオの父の病のいやしの結果、ポプリオたちは、パウロの一行をさらに尊敬し、彼らが出帆するときには、必要な品々を用意したのです(10節)。
こうしてパウロが主なる神から与えられた使命を果たして行くため、ポプリオの家族は彼らなりに用いられることになりました。
[4]結び
主なる神はパウロと同船者たちを船の中ばかりでなく、マルタ島においても豊かに守り導いておられます。この場合、マルタ島の人々を通して、主なる神は導きを進めておられます。人々を通して働かれる、主なる神の恵みの御手について教えられます。
11節の「三か月後に」との表現を注目。パウロの一行はこの三か月、おそらく11月から2月までの期間、マルタ島に滞在したと考えられます。この期間(参照・使徒20章3節)、パウロ一行が忍耐をもって福音を伝えていた姿を思い、教えられたいのです。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。