座礁(ざしょう)の中で
使徒の働き27章39節~44節
[1]序
今回は、パウロたちが乗船していた船がついに座礁してしまい、その中でパウロと同船していた人々みなが「無事に陸に上がった」(44節)事態を描く記事(使徒の働き27章39節から44節)を味わいます。
無事に陸に上がるまでの経緯を追い、神の御使いを通してパウロに与えられ、パウロから人々に伝えられた約束(24節、「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」)が、実際にはどのように成就して行くのか注意します。
39節から44節を二つに分けて。
①船が座礁してしまうまでの場面。
②その中で兵士たちと百人隊長の対応。乗船している人々がそれぞれの方法で陸に向かう場面。
[2]砂浜に向かって
(1)準備、判断、計画、実行
33節以下に見た、パウロの勧めに従い同船していた人々は、「十分食べてから、彼らは麦を海に投げ捨てて、船を軽く」(38節)し、上陸に備えました。
そして「夜が明けると、どこの陸地かわからないが、砂浜のある入江が目に留まったので」、この目撃した事実から判断を下し、「できれば、そこに船を乗り入れよう」(39節)と目標を定めます。
この目標に向かい、最善と思われる三つのこと、
①錨を切り捨てること
②同時にかじ綱を解くこと
③風に前の帆を上げること
を計画し、順を追って実行して砂浜に向かい進んで行ったのでした。このように直面する事態から判断を下し、目標を定め、その実現のため計画を立ち実行して行く。この一切の事柄は、経験を積んだ水夫たちを中心に運ばれたに違いありません。
この一連の動きに対してパウロは一切の動きを是認していたと見るのが自然です。
(2)ところが
しかし41節のはじめにあるように、「ところが」なのです。
判断、計画、実行して、船が陸に向かいある所まで進んできた時、「ところが、潮流の流れ合う浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった」(41節)のです。
このように不慮の事態に直面し、「へさきはめり込んで動かなくな」って、ついに「ともは激しい波に打たれて破れ始め」、危機的な事態に陥りました。
[3]その中で
船が座礁し、乗船していた人々全員が危険な状態に陥ったとき、兵士たちと百人隊長それぞれが判断を下しました。
(1)兵士たちは
まず兵士たちの態度について。彼らは、「囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと相談した」(42節)のです。護送中の囚人たちの一人でも逃亡してしまうなら、その責任は厳しく追及されます。兵士たちは身に及ぶ危険をどうしても避けたいと願い、パウロを含め囚人たちを殺害し、身の安全を図ろうとしました。
同船している人々全体のことなどを考えず、小船で逃げ出そうとしていた、あの水夫たち(30節)と同じです。
(2)百人隊長ユリアスは
兵士たちの相談が進み、パウロを含め囚人たちの生命が風前の灯となってしまう。
このような中で、百人隊長が判断を下す姿をルカは鮮やかに描いています。百人隊長は、船旅のはじめから、パウロに対して好意をもって接していました(3節)。さらにこの段に及んで、「パウロをあくまでも助けようと」決断して、兵士たちの囚人殺害の相談を押さえにかかったのです。
おそらく、囚人が万一逃亡した場合には、その責任は一切自分が負おうと百人隊長は兵士たちに保証したと推察されます。
また囚人たちには、一時的にしろ自由を与えるけれども、逃亡しないように誠意をつくして訴えたことでしょう。
兵士たちの意向だから仕方ないと成り行きに任せて、囚人殺害の責任を兵士たちに転嫁したりしないのです。「泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように、それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように」(44節)と、各自にそれぞれの能力に応じて方法をこうじるように指示。見事ではありませんか。この百人隊長の姿に、指導者のあるべき姿を見ます。
「こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった」のです。「こうして」とは、直接には、あるべき指導者の姿を示す百人隊長の指示通りに、乗船している人々がみな実行し、全員が無事陸に上がったことを意味しています。
しかし同時に、船の座礁以来の一切を通して、さらにはカイザリヤの港を出港して以来の船旅のすべてを経過して、「こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった」と広い意味で受け取ることもできます。
何よりも、神の御使いを通してパウロに与えられた約束の一部、「そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」は、成就しました。
[4]結び
「こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった」。神の約束が成就して行く道は、懸命に泳いだり、必死になって板切れにつかまって陸へ向かう道筋を通してです。こうした事態は、何か思いがけないことと驚く必要は全くないと教えられます。
40、41節。事態を明確に見渡し、「錨を切って海に捨て、同時にかじ綱を解き、風に前の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った」のです。
どの位の距離でしょうか。その距離は記されていません。まずかなりの距離だと見るのが自然でしょう。「ところが、潮流の流れ合う浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった」とある通り、途中で挫折し目標は達せられなかったのです。
しかし船が座礁した地点まで進んでいなければ、43、44節にみる百人隊長の命令も、その実行も考えられないのです。途中で挫折してしまったと見える現実も、次のステップのため、「忍耐と励ましの神」(ロマ15章5節)によって用いられている事実を見ます。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。