私のように
使徒の働き26章24節~32節
[1]序
今回は使徒の働き26章最後の部分を味わいます。
26章24節以下の箇所では、総督フェスト、アグリッパ王またそこに同席した人々(30節)がパウロの弁明(2~23節)に対してどのように応答しているか、ルカは描いています。
この記述を通して、宣教者パウロの心の願いが明らかにされています。まず総督フェストとパウロのやり取り、次にパウロとアグリッパ王とのやり取りを見て行きます。その後29節に見るパウロの願いの意味。この願いを記録する際、著者ルカの心の中に溢れている使徒の働きの読者・私たちに対する期待に注意します。
[2]フェストとパウロ
(1)フェストの応答
2節以下に展開されているパウロの弁明、その中心である23節、「すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです」との宣言を聞いた総督フェストは、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」(24節)と大声で叫び、パウロの弁明を中断させてしまいます。
総督フェストも、パウロの主張が預言者たちやモーセについての深い学識に基づく事実、またダマスコ途上の経験以前の「若い時からの生活ぶり」(4節)を無視できないのです。そこで、「博学があなたの気を狂わせている」と反論しています。フェストはパウロの学識を認めながら、パウロの弁明の中心である、ダマスコ途上の経験についての証言には、真剣な注意を払わず、あり得ないと拒絶しています。
ダマスコ途上の経験以前のパウロの生活は、4節と5節、また9~11節でパウロ自身が証言しているように、「すべてのユダヤ人の知っているところで」、「ナザレ人イエスの名に強硬に敵対」していたのでした。
またダマスコ途上以後の歩みは、20節、「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです」に明らかにされているように、ユダヤ人に対して、さらに異邦人に対して福音を宣べ伝えるもので、総督フェストもこの事実は十分承知していました。
なにか特別な理由がなければ、このようにパウロの生き方が一変することは考えにくいのです。パウロ自身の証言は、ダマスコ途上で復活の主イエスに出会い、百八十度生き方を変えさせられたと提示します。しかしフェストはこの一点に目を注ぐことをせず、パウロの弁明を拒絶。
総督フェストはパウロのみを問題にし、自分はパウロを裁く立場に立ちます。自分自身の生き方が問われているなどとは考えないのです。パウロが経験し証言している復活の主イエスに自分自身がかかわることからフェストは身をそらしています。
(2)パウロの反論
総督フェストが、「気が狂っているぞ。パウロ」と大声で叫ぶのに対して、「フェスト閣下。気は狂っておりません」とパウロは反論し、「私は、まじめな真理のことばを話しています」と逆襲します。
26節以下では、アグリッパ王をパウロは証人として引き出し、「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます」と断じるのです。
問題は狂気の可能性の否定は勿論、単なる知識や常識のあるなしでもないのです。エルサレムの人々が認める公然周知の事実(ルカ24章18節)に基づきます。パウロは主イエスの死と復活の事実を率直に証言しているのだと主張しています。参照ヨハネ9章25節、「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです』」。
[3]パウロとアグリッパ
(1)パウロの問い掛け
総督フェストとパウロのやり取りは、パウロがアグリッパ王を証人として引き合いに出すことにより、パウロとアグリッパ王との間のそれに移って行きます。
26節に見るように、アグリッパ王も主イエスの死と復活の事実を承知しているはずだとパウロは断言します。何故なら、「これらのことは片隅で起こった出来事ではありません」からと、パウロはその理由を明らかにし、その上で、「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います」と、パウロは問い掛けるのです。預言者を信じているなら、彼らが預言しているメシアの死と復活を受け入れるはずだ、そしてナザレのイエスこそ預言者たちが預言して来たお方ではないか。アグリッパ王よ。あなた自身は、このお方に対してどのような態度を取るのかとパウロはアグリッパ王に個人的な決断を求めます。主イエスと弟子たちの場合と全く同じです。
(2)アグリッパ王の応答
アグリッパ王はパウロに答えます。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(28節)と。「わずかなことば」と表現するのは、パウロがこれほど詳しく弁明をなした上でも、なお「わずかなことば」だけでは、個人的な決断はできないと言い張るアグリッパ王の言い訳です。
「私をキリスト者にしようとしている」と、アグリッパは彼なりに、今何が問題の中心になっているかを理解していることを示しています。問題は、「私」アグリッパにかかわることなのです。パウロについて調べるだけではすまないのです。
「アグリッパ王あなたは」と、自分自身の判断と決断が問われています。このことを承知しながら、「わずかなことばで」と言い訳して、肝心な所で身を引いてしまいます。アグリッパ王だけではありません。総督もベルニケも、そして同席の人々も皆そうでした。パウロの無罪について話し合うだけで、自分自身に対して問い掛けられている呼び掛けには答えないのです。
[4]結び
パウロの願いは明らかにされています。
「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」
この願いのためにパウロの弁明がなされています。「私のように」、これこそ伝道・宣教の中核。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。