そこでパウロは
使徒の働き25章23節~26章1節
[1]序
今回は使徒の働き25章の最後の部分から26章へ移る箇所を味わいます。
総督フェストとアグリッパ王の間でパウロに対する訴えが話題となる中で(25章13~22節)、「私も、その男の話を聞きたいものです」とアグリッパ王は好奇心にかられます。アグリッパ王のこの思いにフェストが同意して、パウロに対する取り調べが再度開かれます。25章23~27節では、パウロの堂々とした弁明(26章2節以下)が、どのような人々の前でなされたかをルカは描いています。特にアグリッパ王と総督フェストがどのような動機からパウロの取り調べに臨んでいるかに焦点を合わせています。この点に注意したいのです。またパウロがこのような状況の中で、どのような態度や思いで弁明を進めているか見て行きます。
[2]取り調べる人々
(1)アグリッパ王
アグリッパ王は、パウロが指摘しているように(26章26節、「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます」)、主イエスの十字架と復活について知識をもっていたのです。
しかし主イエスの事実によって、自分の生き方が左右されるなどとは考えていないのです。パウロの福音宣教を直接聞いた後にも、26章28節、「するとアグリッパはパウロに、『あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている』と言った」に見る通りです。アグリッパは、パウロに対してどこまでも裁く立場にとどまります。
パウロに対する好奇心は、パウロという人物に対してのそれであって、彼が宣べ伝える福音に対して特別求道心を示してはいないのです。
(2)フェスト
フェストも再度パウロを取り調べるにあたり、彼なりの動機をもっています。
カイザルに上訴したパウロをカイザルのもとに送るため、適当な訴えの箇条を書き送らねば理に合わないとフェストは判断しています。そこでアグリッパ王の協力を得、パウロをもう一度取り調べ、カイザルに書き送る箇条を書き上げたいと願うのです。
州総督の立場に立つ者としての実際的な必要以外に興味はなく、パウロが宣べ伝える福音を自分への語りかけと受けとめる備えなど少しもなしていないのです。
アグリッパ王とペルニケに付き添い取り調べの場にいた「千人隊長たちや市の首脳者たち」(23節)も、大同小異の動機から、その場に臨んでいたと考えられます。
[3]パウロは
アグリッパ王とフェストはそれぞれの動機でその場に臨んでいたのです。
彼らの前に立つパウロは、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい」(26章1節)と機会を与えられると、その機会を見逃すことなく、「そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始め」ました。
パウロはどのような心の思いで、26章2節以下に見る弁明をなしたのでしょうか。二つの手掛かりがあります。
(1)26章25節、「するとパウロは次のように言った。『フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています』」。
第一は、26章25節です。26章24節に見るように、パウロの弁明を聞き、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」とフェストが大声で叫んだのに対して、「私は、まじめな真理のことばを話しています」と、パウロは明言します。フェストの動機が、カイザルに対し訴えの箇条を書き送るための取り調べといったものであったとしても、パウロは全力を注ぎ、そのフェストに向かい「まじめな真理のことばを話して」います。主イエスから委ねられた、福音宣教の使命(26章16~18節)を忠実に果たし続けるパウロの姿を見ます。
(2)26章29節、「パウロはこう答えた。『ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです』」。
アグリッパ王に対しても、パウロは同じ思いで福音を宣べ伝えている事実を明らかにしています。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(26章28節)とアグリッパ王の冷ややかな反応に直面しても、「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」(29節)と、福音宣教の目標を明確に自覚しながら、弁明をなし続けているとパウロは明らかにしています。
フェストとアグリッパはそれぞれの動機でその場に臨んでいます。しかしパウロは彼らが自分と同じように主イエスを信じ、罪の赦しを得、御国を受け継ぐ者となるようにと、はっきりした目標を目指し福音宣教に従事しています。「そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた」との表現は、このパウロの姿を的確に描いています。
[4]結び
パウロはテモテに、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(Ⅱテモテ4章2節)と書き送っています。
テモテに勧めているように、パウロ自身アグリッパ王やフェストの動機を知りながらも、与えられた機会を見逃すことなく、みことばを宣べ伝えています。
なぜパウロはそのようにしたのでしょうか。またそうできたのでしょうか。それは、パウロが自分自身の経験に立ち、他の人々についても見ていたためと考えられます。ダマスコ途上で、主イエスがパウロに語りかけてくださり、信仰告白へ導き、福音宣教に専心する者へと整えてくださったとき、パウロ自身、主イエスを求めているとは言えない状態でした。ダマスコにいる主イエスを信じる人々を迫害する動機で、道を急ぐパウロを、主イエスは捕らえなさったのです。こうした経験を持つパウロは、フェストやアグリッパ王の動機を知りながらも、簡単に断念しなかったのです。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。