イエスが生きている
使徒の働き25章13節~22節
[1]序
今回は、使徒の働き25章13節~22節を味わいます。
まず第一に、25章12節との関係を注意したいのです。11節では、「私はカイザルに上訴します」とパウロははっきりした態度を示しています。
これに対して、総督フェストは、「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい」と宣言しています。本来なら、パウロは早速ローマに送還されるはずです。25章12節から、直ちに27章1節以下に結び付くのが自然です。
ところが、25章13節では、アグリッパ王と妹ペルニケがフェストを訪問する様子を描いています。そして13節から22節では、パウロをめぐる裁判についてこれまでの経過をルカは描きます。その内容は、25章1節から12節と重なり合います。
また26章1節以下では、パウロがアグリッパ王の前で繰り広げる弁明をルカは記述しています。ですからカイザルへの上訴という点から見れば、25章13節から26章32節までは、間に入れられた直接は上訴そのものと離れた部分です。しかしこの部分は、カイザルへの上訴がどのような意味があるか理解するためにどうしても必要なこととして挿入されています。
[2]フェストの言い分
(1)アグリッパ王
アグリッパ王は12章1~23節に登場したアグリッパ1世の息子で、ローマの保護のもとに、レバノン山脈とアンチレバノン山脈に挟まれた小さな国ガルキスの王で、後にはより広大な地域を支配するようになりました。アグリッパは王とは言え、ローマに従属し、ロ-マからの総督の就任には、カイザリヤをわざわざ訪問し、ローマの好意を保持しなければならない立場にいました。
(2)ローマの慣例は
アグリッパ王とペルニケがカイザリヤに幾日も滞在している間に、フェストはパウロの一件を話題にしたのです。14節から21節にルカが記録しているフェストの言葉には、フェストの立場からの言い分が表面に出てきます。
15節、「私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました」は、25章1節から3節に見る事柄についての言及。
16節、「そのとき私は、『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない』と答えておきました」では、4節と5節が伝える事柄を、一つの強調点をはっきりさせながら繰り返しています。「被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない」と、ローマの慣例がいかに優れているかをフェストは指摘しています。
(3)私は
17節、「そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました」では、6節で描かれている事柄をフェストの立場から述べ、ローマの慣例に基づき審判を進めるフェストがいかに有能な裁判官であるか、「私は時を移さず」と強調しています。
[3]フェストも認める中心点
パウロの一件についてフェストが明らかになったとしている点。
18節。パウロはロ-マに対する反逆など政治問題とかかわりがないことをフェストは確認し、問題を宗教上の論争であると指摘しています。パウロの主張、ルシヤの判断(23章26~30節)参照。
19節、「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした」。これが、まさにフェストの目から見た中心点。
パウロの一件は、結局、主イエスをめぐる理解の相異だとフェストは指摘します。フェストの目からすれば、「死んでしまったイエス」。
しかしパウロはイエスが生きていると主張しています。ここにパウロの一件の中心があるとフェストは正しく把握しています。
しかしフェスト自身は、死んだ主イエスが今、現に生きているとは全く受け入れがたいのです。このフェストの思いは、アグリッパ王の前でパウロが力強く弁明をなしたとき、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」(26章24節)と大声で叫んだことにより、さらに明らかにされて行きます。死んでしまったイエス、その主イエスが生きておられる。これこそパウロの主張の中心であると見て取ってはいても、その中心点をフェスト自身は受け入れないのです。
[4]結び
主イエスの復活、これこそパウロがいつでもどこでも宣べ伝えていた福音の中心です。たとえば、コリント教会に対して繰り返し強調しています。Ⅰコリント15章3、4節。パウロだけでなく、新約聖書全体が宣言している中心的メッセージです。その代表的なものの一つ、マタイ28章20節、「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。
この復活の主イエスも、アグリッパ王やフェストにとっては、話題の一つに過ぎなかったのです。しかしパウロにとっては、主イエスの復活こそすべてのすべて。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。