主イエスとサウロ
使徒の働き9章1節~9節
[1]序
今回は使徒の働き9章に進み、1節から9節を、主イエスが「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃え」(1節)るサウロに呼びかける事実とサウロの応答、さらに主イエスの指示を中心に味わいます。
9章1節以下は、8章4~40節のピリポの宣教活動の記事を挟んで、エルサレム教会の迫害の報告(8章1~3節)に直接結びつきます。
激しい迫害の中でも、福音宣教の輪が広げられて行く一方、迫害も広がることが示されています。9章1節と2節では、エルサレム教会を迫害するだけでは満足せず、迫害を逃れ各地に散った人々を追撃するサウロ(Ⅰテモテ1章13節)の姿を描いています。3節以下では、サウロの一行がダマスコに近づいたとき、全く予期しない出来事が起こったことを伝えています。激しく教会を迫害していた人物が一転して福音宣教者と変えられる、このダマスコ途上の出来事がいかに重大であるかは、22章6~16節と26章12~20節においても繰り返し記述している一事からも明らかです。
[2]「あなたが迫害しているイエス」
(1)「サウロ、サウロ」
ダマスコ途上の出来事をどのように理解するとしても、一つの点は明らかです。それは、「サウロ、サウロ」と主イエスが呼びかけておられる事実です。主イエスが相手の名を二度重ねて呼びかける場面をルカが描く実例を注意したいのです(ルカ10章38~42節、22章31節と32節)。これらの実例を通して、「サウロ、サウロ」との呼びかけが鋭い非難のことばであると同時にサウロを求めてやまない愛の迫りでもある事実を教えられます(参照創世記3章9節)。
(2)「なぜわたしを迫害するのか」
サウロはエルサレムで教会を荒らし、ダマスコまでその迫害の手を延ばそうとしています。ところが今、このダマスコ途上で、「なぜわたしを迫害するのか」と鋭く迫るお方に直面します。キリスト者・教会を迫害することは、主イエスご自身を迫害することに外ならない。この主イエスと教会が一体である恵みの事実を、福音宣教者として召される出発点からサウロ(パウロ)は深く教えられ、この驚くべき恵みの事実を様々な機会に様々な表現で伝えました(参照エペソ5章30~32節)。
[3]手を引かれるサウロ
9章3節と4節に見るように、サウロは思い込みと迫害の計画を抱きダマスコへ進む途上、神の栄光に圧倒され、主イエスの呼びかけに接して、心に大きな変化を経験します。今や高慢を打ち砕かれ、「主よ。あなたはどなたですか」と応答します。「主よ。あなたが中心であり、第一です」と認め、自分の知識の限界を告白して、ご自身を明らかにしてくださるようにサウロは求めています。
従順になったサウロの求めに対して、主イエスは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と宣言なさいます。この宣言はサウロの心を貫き、主イエスに全く従う者へと整えるのです。このサウロに、「立ち上がって、町に入」ることを通して、実際的に主イエスの従う道が示され、「そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」と主イエスは約束なさいます。時間をかけ、一歩一歩の宣教の主の導きです。
サウロは、主イエスのことばに従い、「立ち上がって」(6節)、人々に手を引いてもらいダマスコへ進むのです。手を引かれて進むサウロは、やがてダマスコで大胆に福音を伝えます(19節以下)。その結果、かごに乗せられ、町の城壁伝いにつり降ろされるのです。この経験をパウロは生涯忘れません(Ⅱコリント11章32節と33節)。
[4]結び
手を引かれて進むサウロを通して、福音は広く伝えられて行きました。彼を導きなさる主イエスの恵みが明らかにされ、主イエスに従う信仰の歩みが何かを教えられます。ガラテヤ1章11~17節に見る、パウロがダマスコ途上の経験について述べていることをお読みしましょう。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。