イエスを宣べ伝え
使徒の働き8章26節~35節
[1]序
今回もピリポの宣教活動を見て行きます。24節までではサマリヤ宣教についてでしたが、今回の箇所は場面が移り、「エルサレムからガザに下る道」(26節)でのピリポとエチオピヤ人の宦官の出会い、そうです、エチオピヤ・アフリカ宣教への一歩です。
サマリヤ宣教はペテロやヨハネを中心に続けられますが(25節)、ピリポは、「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」と、新しい使命を受けます。これは、はじめ理解するのが困難な命令であったと推察されます。サマリヤでは福音宣教に対して良い応答がなされていました。同時に、シモンの実例に見るように、福音に立つ生き方をなおはっきり伝える必要があったのです。
しかし新しい使命を受けたとき、ピリポは神に従順に従い、「立って出かけた」のです。「すると、そこに」と、ピリポの使命の内容が示されて行きます(27~29節)。初めから何もかも明らかにされていたわけではなく、神の命令に従い一歩踏み出したとき、さらに詳しい命令が明らかにされて行きました。
[2]「導く人」を求めるエチオピヤ人の宦官
神の命令に従い砂漠の中を走る道を進むピリポは、この道をエルサレムの方から下ってくる一行に出会うのです。30節以下は、ピリポと宦官との間に展開する率直な対話です。
(1)エチオピヤ人の宦官
その一行の中心に、「エチオビヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた」(27節)宦官がいます。この人は仕事がよく出来、役立つ限り、高い地位や責任も与えられています。
しかしこの人の存在そのものの尊さは認められず、人間本来の正常な生き方を否定されています。仕事がすべてで、去勢という非人間的な取り扱いを受け道具のようにされてしまっているのです。
(2)礼拝のためエルサレムに
単に役立つかどうか・機能を物差しに取り扱いを受ける人生を、この宦官は送って来ました。しかしどのような取り扱いを受けようとも、彼は一人の人間です。高い地位や大きな責任だけでは満足できないのです。諸国に散らされていたユダヤ人から影響を受けたのでしょう、創造者なる生ける神を礼拝する者となったのです。しかも公然と信仰を告白、多くの犠牲を払い、エルサレムまで礼拝のため上って来たのです。
(3)預言者イザヤの書
この宦官は神を礼拝するためにはどのような犠牲をも払う熱心な人でした。しかし自分の熱心に頼るのではなく、神のことばである聖書を通し、神のみ旨に従い礼拝をなそうとするのです。ピリポが出会ったとき、宦官がイザヤ書を読んでいたのは興味深い事実です。イザヤ書56章3節以下に、宦官に対する希望に満ちた約束が与えられています。この約束を現実とする、53章に描かれている人物に宦官は最大の注意を払うのです。
[3]導く人・ピリポ
ピリポは、この宦官が必要としている導く人でした。ピリポは、今自分を最も必要としている人に出会い、「この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」のです。「この聖句」とは、32節と33節に引用されているイザヤ53章7節から9節。預言者イザヤは主イエスご自身を指し示していると語り、ピリポは聖書の説き明かしを通して、主イエスを宣べ伝えるのです(35節「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」)。
[4]結び
聖書を読むとき、私たちもあの宦官のように自らの無知を認め、神の導き・聖霊の助けを求めるべきです。主イエスが弟子たちに与えられた約束に励まされて(ヨハネ14章26節、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」)、宦官とピリポの場合のように、導かれる人も導く人も、聖霊ご自身の助けと導きに信頼しながら。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。