イエス様を信じてクリスチャンになると、「平安を与える計画、将来と希望(エレミヤ29・11)」が与えられ、何の問題もなくなるように思えるかもしれませんが、実際は試練というものがあります。
旧約聖書のモーセやヨセフは長い間の試練を通して神に用いられるようになりました。
私たちも自分の子どもが生まれたら、御飯を食べる前にお祈りをすること、手を洗ってから御飯を食べることをしつけるでしょう。一方、私生児にはそのような訓練はありません。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます(Ⅰコリント10・13)」
いろいろな試練が生じたとき、いつまで続くかと心配するかもしれませんが、神の子となった私たちには「耐えられない試練」は送られません。試練が来た時、必ず「脱出の道」があると信じなければなりません。
ペテロは明日処刑されるというのに、寝ていました。すべてを神に委ねていました。もし「神の時」ではなければ助かると信じていました。
同じように私たちに「耐えられない試練」はやってきません。必ず脱出の道があります。
教会員やメンバーに問題が生じたり、いろいろな試練が生じてきます。そのような時、「なぜこのような試練が降りかかるのか?」と思われるかもしれませんが、すべては耐えられない試練ではありません。世の中はサタンの支配下(Ⅰヨハネ5・19)にあり、そのサタンが自分の時が短い(黙示録12・12)ことを知っていますから、日本がリバイバルされる前に、いろいろなことを仕掛けてきます。
敵を直視したら、自分の能力ではとても太刀打ちできません。しかしダビデのように「この戦いは主の戦いだ(Ⅰサムエル17・47)」と信じ、自分で戦うのではなく、主が戦うのならば解決することができます。
よっぽど凄い試練が生じた時は、サタンがこれをなんとか阻止したくてやっていると考えてください。(神様の働きのために)本当に戦力になる人を、なんとか働かせないようにとサタンが働きかけています。
いろいろな問題があなたのまわりに生じているということは、それだけ神様の働きがこれから現れようとしているということでもあります。
神が試練を許されるその目的はどこにあるのでしょうか。
エデンの園でアダムとイブは神様とともに素晴らしく生活していました。そこに善悪の木の実を敢えて神様が置かれたということは、どういうことかと言いますと、色々な問題が生じる中で、人間の中に隠れている願いや思いを明らかにするためでした。
「善悪の木の実を食べてはいけない」と言われましたが、これによって人間がそれに従うかどうかという思いを明らかにすることができます。しかし彼らは禁じられた木の実を食べてしまいました。つまりサタンと同じように、「神のようになりたい」という思いが心の中にあることが明らかになったのでした。
同じように、色々な問題が生じたとき、自分の中で練られなければならない心の問題がはっきりとしてくるようになります。経済的な問題が生じた時、経済に関する神様への信仰が足りないことが明らかになってきます。創り変えなければならない事柄がはっきりと示され、より神様に信頼していこうというふうになります。
私は、今は経済的祝福のためには必死に祈らなくなりました。と言いますのも必要があったときには、神様が絶対満たしてくださると信じているからです。そういう事柄を実際に乗り越えていくことによってクリアしていかなければなりません。
旧約聖書で用いられた人たちは本当に大変で、死んでしまった人も存在しています。それらの事柄は後世の私たちに教えるために書き残されてきました。
「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった(申命記8・1-2)。」
全行程の試練は神様が許されておられます。そのような試練が何のためかと言いますと、「あなたの心のうちにあるものを知るため」です。たとえば目の前に財布が置いてあったとして、それをあなたはどうしますか?横取りしたいという心が生じるか、それとも警察に届けようとするでしょうか?
試練と誘惑があります。乗り切った人には試練となり、負けた人には誘惑となります。さまざまな出来事を通して、私たちの心の中にある問題がはっきりとしてきます。
願うことが叶えられるまでの時間が長引いてしまうと、神のことばに対する疑いが起こるようになってしまいます。しかし、それはあなたが試されているということでもあります。一週間、一カ月と叶えられない期間を通して、神のことばを完全に信じきる信仰がまだ足らないということが明らかになっていきます。
乗り越えなければならないいろいろな過程がありますが、その全行程をクリアしていかなければなりません。
イスラエルの民は、そのような行程をクリアしてカナンの地に入ることができました。
行程をクリアするまでは、「肉が食いたい、水がほしい、食べ物がない」など色々なかん難がありました。しかしその全行程の中身を知らないといけません。何のために彼らはエジプトから出たのでしょうか。それはカナンの地に行くためだったのですが、試練を受ける際中でそれを忘れてしまっている姿が見られました。
同様に私たちもいろいろな訓練を受け、病に苦しんだり、お金が足りなかったり、その他いろいろな困難があるかもしれません。しかし私たちの本当の目的は「天の御国に入ること」にあります。さまざまな試練を通して、あなたの心のうちにある信仰の問題が明らかになっていきます。
「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった(申命記8・3)。」
私たちは食べ物だけで生きているのではありません。霊を維持するためには神のことばが必要であり、主の口から出るすべてのもので生きる必要があります。
経済的な試練が生じた場合は、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます(ピリピ4・19)」という御言葉、自分に仕事の能力が無いという試練が生じた場合は、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4・13)」という御言葉、病の試練が生じた場合は「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(Ⅰペテロ2・24)」という御言葉をそれぞれ信じ切るための訓練を受けているのです。
徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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