試練は訓練です。それに耐えてください。訓練されると、平安な義の実を結ぶようになります。そのために試練があるのです。その試練に勝てなかった人には誘惑となります。いろいろなテストで失敗することもあるかもしれませんが、乗り越えて勝利していくものとなっていきたいものです。
これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(Ⅰコリント10・6)
旧約の時代にいたら、私も死んでしまう民であったかもわかりません。旧約聖書が書かれた目的は、私たちが旧約の民と同様に悪をむさぼることのないためであり、私たちへの戒めのためでもあります。
私たちは出エジプト記から学ぶことがあります。私たちのために、私たちがこの世にあって、躓かずに天の御国に行くために旧約聖書が書かれてあるのです。
パウロはそれを第一コリント10章に的確にまとめました。
そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。(Ⅰコリント10・1~5)
イエスを信じたから大丈夫なのではなく、その後も危険があるから注意しなければなりません。旧約聖書はその警告のために書かれています。イエスを信じて永遠のいのちを持っているから、何をやっても天国に行けるというわけではありません。永遠のいのちを持っておられるお方はイエス様だけです。イエス様を信じたらイエス様の中に入れられるから永遠のいのちを持つようになるのです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません(Ⅰヨハネ5・12)。イエス様を一回信じたらもう教会に行かなくても、天国に行けるから何をやっても自由だというのは愚かな考え方です。雲の柱、火の柱と共に行動していたカナンへ向かうイスラエルの民のように、彼らがした過ちを私たちが冒さないように、注意して行動していかなければなりません。
「貪る」という誘惑に彼らは陥っていましたが、耐えきった者は貪りの罪をクリアしました。「肉が食べたい、水が飲みたい、病気を治したい、お金持ちになりたい」…ということが人生のゴールなのではありません。そのことを学んでいかなければなりません。
試練はすべて私たちの計画のためにあるのです。貪りの誘惑から勝利する者となっていきたいものです。肉や水を求めた者、「神様あれやって、これやって」と言う人、注意してください、その先には危険があります。
あなたが求めているものは何でしょうか。イスラエルの民はカナンの地を求めていました。天国を求めているあなたは、天国に行きたいと求めています。では、天国に何をしに行きたいのでしょうか。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11・6)
貪る人たちは神に「肉をくれ、金をくれ」と言います。天国には神様がおられます。天国に行きたいということは、神を求めることなのです。神を求める人がゴールインするのです。神が喜ぶことをやっていきたいというふうにして、この神に私たちは近づいていくのです。
あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、『民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。』と書いてあります。(Ⅰコリント10・7)
私たちはイエスを信じつつも、他の偶像を崇拝する者になってはいけません。あなたの中で、神様が一番になっていなことが偶像崇拝の罪です。神様を一番にしなければなりません。
また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。(Ⅰコリント10・8)
姦淫をしてはいけません。これは夫婦関係の違う人との性的なこと以外にもあてはまります。真の神を信じるということは、イエス様を信じるということは、「イエス様と結婚した」ということです。イエス様と結婚していながら、他の人とおかしな関係をもっているのはおかしいということです。一番の大事なことは霊的に姦淫しないということです。イエス様を信じるということは、イエス様と結婚したのです。であるならば、あなたに「前の夫」がいたら離婚しなければいけません。それからイエス様を信じてください。
私たちは天の御国に行くのです。天に行ってイエス様あなたが私の主人だと言いながら、他の宗教の夫を連れて行ったら、大変なことになってしまいます。もちろん「他の夫」は上がっていくことはできませんが。イエスを信じてまだ仏壇を持っている人は、処分してください。信じるなら仏壇は処分しましょう。
私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。(Ⅰコリント10・9)
主を試みる者になってはならず、信じる者とならなければなりません。蛇に噛まれて、滅ぼされた人がいました。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。(ヨハネ3・14)
問題が生じて、いろいろな蛇に食われる罪のただ中にあって死んでしまってもおかしくない時に、「上げられたイエス様」を見上げることで助かってきました。同じように私たちも主を見上げる時に助かるのです。一方問題があって、主を見失う人は、蛇に噛まれてしまいます。イエス様が自分の罪を覆ってくださったと知らなければなりません。
なぜイエス様が蛇に例えられているのでしょうか。―それはイエス様が「私の罪」をもって上げられたからであり、だからこそ私が許されるようになったのです。そのように主を見上げることで勝利していくわけです。
また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。(Ⅰコリント10:10)
イスラエルの民は何をつぶやいたのでしょうか。モーセたちに逆らったのです。モーセを立たせた神に逆らうのでした。私たちはそういう中で、過ちをしない者になっていきましょうという、試練がそこにあるわけです。
もし指導者が間違っていたら、その指導者が変わりますようにと祈るべきであって、あなたが裁いてはいけません。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです(Ⅰコリント10:11)。
旧約聖書はただ昔の神を信じた民が大変だったということが記されているわけではなく、あなたが同じ間違いをしないように書かれてあるわけです。
徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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