一方で、人生の途上で大きな傷を受けてきた人々について峯野氏は、「愛されなければならない時期に愛されることが十分なされることがなく、さばかれ、懲らしめられ、そのことのためにますますいじけ、くじけ、やがてそういう自分という存在を誰も真に理解してくれないことを悲しみながら、人生をのろうかのごとく人に恨みを抱き、憤り、開き直り、ますます悪化し、仕返しさえ始める人々もいる。これらの人々は、さばかれることによって、気づいて反省し、素直に立ち直っていくという復元力がない。肉体こそ健常であるが、人間の精神的生き方の中では(深い傷を受けた人生の中にあって)ハンデを持ってしまっている」と説いた。
傷を受けた人の人生を回復させるには「愛」が必要
そのような多くの傷を受けた人々が救いを求めている社会にあって、峯野氏は「さばかれるようなことをしなければならなくなってしまうような、自らに対する不快感がある。そのような人に対し、理解し、心を寄せ、言葉がけをし、その人のために執り成し、自らがその人のために不利益を受けることさえ受け入れ、深く愛そうとするときに、さばかれるべき人が、真に生まれ変わっていくことができる。真に愛されることによって、人は誰もが生き返ることができる。さばきはむしろ人を死に追いやってしまう。愛はそのような人を癒し、回復し、その人の人生の人間性をもう一回回復させることができる。それをキリスト者は信じなければならない」と説いた。
そのようなアガペ―の愛を継続的に発揮していくためにも峯野氏は「主からいただいた愛によって駆り立てられて、さばかなければならない場面で赦し、憎まれなければならないところで愛することができることで、聖霊様に満たされる私達にしていただこうではないか。バックストン先生はそれを説かれていた。神は愛であり、愛は神から出たものである。神の愛の内にとどまる人の中に神もとどまる(Ⅰヨハネ4章)。私たちはさばく者ではなく、愛する者へと変えられていこうではないか。お互いの反するところの思いと生活が駆逐されるほどに、聖霊様に日々満たしていただいて進んでいこうではありませんか」と説き、聖霊に満たされることが大事であること伝えた。
峯野氏は「愛するということの力」について「愛によって人が生かされていくということである。何をしてもだめだとさばかれなければならなかった人が、キリストにある関わりをしながら、生かされていくという奇跡を見ることができる。聖霊様によって生まれ変わり、自らの内に主イエスの愛を頂くことになったとき、愛の証を始めることによって、全家がみごとに愛のファミリーとして立ち上がることができる」と説いた。
人は正論や理屈だけでは救えない
ヨハネ8章の姦淫の現場で捕らえられた女に対して峯野氏は「パリサイ人たちは正論を言っていた。正しさが明確であればあるほど、破った者に対して許してはおけなかった。現代社会はまともな理屈では通じないほど、病んでいる。教会が世と同じような正論を説いても人は救われない。むしろ世の中では誰も自分をさばかないけれども、『教会ではさばかれる』と怯えて逃げていってしまう。救いを要する人の多くは、心が傷つき病んでいる人である。(これを無視して)正論で救おうとするなら、大多数の魂を突き放すことになってしまう。福音派、きよめ派は、もし愛を欠いたならば、そのような人たちにとっては、さばきの前に突き出されるような怯えを与え、数回足を運んだら、もう来れないと思ってしまうようになる」と注意を促した。
聖霊に満たされたキリストの愛を伝えるキリスト者へ
その上で教会で「アガペーの愛」を伝えることについて、「単なる人情愛、博愛主義的に人を優しく取り扱うのではない。真に聖霊様に満たされきよめられた主イエス・キリストの心と生き様を身に付けた、キリストのごときひとりひとり、キリストのからだであるといえる教会が必要ではないか。教会はイエス様を表すところでなければならないのではないか」と説いた。
峯野氏は、「心が貝のごとく閉じていた姦淫で捕らえられた女が、イエス様の赦しの愛によって、真心が立ち上がるようになった。イエス様の愛の執り成しのゆえに、見事に救われたのである」と説き、「私達が真にきよめられたキリスト者であり、聖霊様に満たされたキリスト者であるならば、聖霊様の結びは、愛・喜び・平和・善意・柔和・自制である(ガラテヤ5・22-23)。イエス様がなされたように、さばかれるべき人のために喜んで執り成し、不利益を甘受しなければならないことがあっても甘受しながら、仕えていかなければならない。そのような生き方を主は私達に辿ってほしいと願われておられるのではないか」と説いた。
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