英国の貴族階級の家庭に生まれたバークレー・F・バックストンは、ケンブリッジ大学で学業を修めた後、1890年日本伝道に来日、島根県松江市でわらじがけで伝道するかたわら、多くの伝道者、信徒を訓練して、松江バンドと呼ばれる日本の純福音派の源流を生み出した。宣教師ぎらいであった内村艦三も、バックストンについて「彼は人類の華、彼が人であることをもって、われわれの光栄とする」と証ししていることが伝わっている。
1日目となった23日午後の集会ではウェスレアンホーリネス教団淀橋教会(東京都新宿区)主管牧師の峯野龍弘氏が「他者を生かすホーリネス」についてメッセージを伝えた。
峯野氏はヨハネの福音書8章で姦淫の現場で捕らえられた女をイエスが赦す場面を引用し、「さばきか、愛か?主の生き様を我が生き様として、最後の一息まで進ませていただきたい」と述べた。
人をさばくか愛するか?
峯野氏は「さばきと愛」について「一見抽象的な言葉に聞こえるかもしれないが、これほど実践的で日常的なテーマはないと思う。大切な人間関係の中で私達は常に『(相手を)愛するのか、さばくのか』、いずれかの道を選んで歩んでいる以外ではないと思う」と述べた。
このような生について、「主の御心から言うと、大なる過ちであり、自己矛盾であると思う。愛とさばきは共存できない。人生における光と闇のようなものである。光が支配するところでは、闇は駆逐される。人の生き方の中で、ある時までは、『愛に生きた』かに思え、その次の瞬間には人をさばいてしまっている。さばきと愛という共存できないものの間を渡り歩きながら、自分の中では共存を許してしまっている現実の前に立たされている」と説いた。
峯野氏はキリスト者の生において、イエス・キリストが「あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う(ヨハネ15・12)」ことを命じていることから、「『絶えず愛の内にいなさい』とお求め下さっていることを思うと、さばきは遠く彼方にあって、寄りつくことができず、愛から愛にいくようにしなければならない」と説いた。
愛が消え去る時に、さばきがまかり通る
峯野氏は「愛が消え去る時に、さばきがまかり通ることになってしまう。愛よりもさばきの中に人生の大半を過ごしてしまっているような現実があるとすれば、バックストン先生の聖なる口癖であられた『兄弟姉妹、よろしく御霊に満たされましょう』に従って、主に御霊に満たしてくださるように求めなければならない。(御霊に)満ち満ちておられるキリストの姿が、欠けることがないようにしていかなければならない。今は末の世、終わりの世である。人の至る社会どこでもさばきがまかり通り、愛が後ろに退き、この世はさばき合うことに満ちている。夫婦、親子、兄弟、学校、職場、地域社会、公の国政を司る国会の真っただ中にさばきがある。衆議院選挙が始まろうとしているが、このためにも祈らなければならない」と説いた。
峯野氏はさらに教会の中に生じ得る問題として、「それよりももっと悲しいことは、教会の中に裁きがまかり通っていることである。本当に厳かな思いで『さばく心から解き放ち、和解し愛する者としてください。執り成す和解の僕としてください』と切なく願わされる」と指摘した。
終末の時代の最大の兆候として、「終わりのときには、不法がはびこり、愛が冷える(マタイ24・12)」とおっしゃっていた。愛の氷河期を迎えている。終末的な世を造り出してしまった人間の心には、愛が失われている。人間関係が冷え冷えとして、愛の氷河期を迎えている。愛の冷えた人間の付けが回ってきている終末の時代。愛が冷えるとき、不法がはびこる。親子、夫婦の間に憎しみ、争い、断絶が引き起こされているのが、今日の私たちの時代である」と説いた。
峯野氏は人間の性質として「人をさばきやすい。自分のことは棚に上げて、しきりと他者をさばく私たちの心の醜さがある。神様でさえ、お裁きになることを延長させて、御子イエス・キリストを救いのためにこの地にお遣わしになられた。人をさばくとき、自分を神よりももっと上の座に置いてしまう。他者をさばくことの罪深さがここにある」と説いた。
峯野氏はキリストに救われた者として、「イエス様は『愛すること、赦し合うこと』を教えられた。愛し合うことはそこに神の国を創ることである。イエス様があなたがたを赦されたように、互いに『アガペ―』し合うことが必要である」と説いた。
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