9日、世田谷烏山区民センター(東京都世田谷区)で日本キリスト教会東京告白教会主催の「日本支配下の沖縄―40年を顧みて」と題した平和講演会が開催された。講演会では太平洋戦争中に沖縄に海軍少尉として上陸し、戦後も沖縄問題に関わってきた日本キリスト教会教師の渡辺信夫氏が沖縄問題の今昔、および沖縄問題から改めて考える福島原発問題について問題提起を行った。1923年生まれの渡辺氏は2011年5月まで東京告白教会牧師を務め、戦後の1949年に伝道者となりキリスト教伝道、教会開拓、自身が実際に戦争に参加してきた立場として、戦争体験を元にした実体験の証、戦争罪責の追求を長年にわたって行ってきた。
講演会は当初沖縄県宜野湾告白教会牧師の島田善次氏が行う予定であったが、現地でのオスプレイ配備反対運動のため渡辺氏が代わりに講演を行うことになった。島田氏による平和講演会参加者へ向けた書簡が講演会当日に読み上げられた。その中で島田氏は、沖縄県民の抱えてきた苦しみについて「1609年薩摩の侵略で琉球は一封建領主の胃袋を満たすために塗炭の苦しみを味わった。薩摩が琉球に目をつけたのは中国と琉球の貿易の富を独占するためであった。1879年明治政府による武力併合で、外交権が一方的に取り上げられた。1952年講和条約第3条で日本の独立と引き替えにアメリカの軍事占領地になった。日本は朝鮮戦争の軍需景気で栄え、沖縄は米軍支配でブルドーザーと銃剣で土地を奪われ盗まれ、人権のない島とされた。一方独立した日本は朝鮮戦争の軍需景気で沸いた」と赤裸々に伝えた。
また島田氏は平和憲法の下に沖縄で米軍の軍事活動が行われている矛盾について沖縄戦で二人の息子と母、兄を失った元コザ市(沖縄市)長大山朝常が「沖縄独立宣言書」を書いて亡くなったことに触れ、「私も独立すべきだと思っています」と書簡で伝えた。現在行われている沖縄施策について、「平和は必要、抑止力も必要、だから基地も必要という。では基地被害も応分に引き受けてくれと言うと、それはご免だという。今日ほど醜い日本人の構造的沖縄差別が露呈したことはない」と非難した。
沖縄では米軍最新型輸送機「オスプレイ」配備について日本政府は「安全性が確認されるまでは飛行させない」としているが、島田氏ら沖縄県民は7月13日から8月5日の県民大会で炎天下国道58号線大山ゲート前で座り込み運動を続けるなど緊迫した状況の中にある。
沖縄の悲しみ、福島原発事故で浮き彫りに
渡辺氏は講演を通して、沖縄県民が戦争で経験してきた苦しみや悲しみが、改めて福島原発事故を機に福島の被災者の苦しみ、悲しみから浮き彫りにされたことを指摘した。海軍少尉として22歳で初めて沖縄に戦争で訪れ、その後67年間ずっと沖縄と関わりを持ち続けてきた渡辺氏はこれまで沖縄に触れ、沖縄の心を知ろうとすることで、沖縄の平和問題について様々なところで講演を行ってきた。渡辺氏は自身のこれまでの沖縄問題に関する活動について「沖縄について、平和についての証人として、自分が見た事実、自分が確認したことだけを語って来ました。人が書いた本を読んで関心して自分も同感だと言うふうに話すことも意味がありますが、それは証しとは違います。自分が見たことだけを話すようにしてきました」と述べた。
渡辺氏は67年前に戦場の沖縄に辿りついた時のことについて、「当時の沖縄は第一線の向こう側まで行ってしまったと思いました。岸壁に立つと、港内と那覇の街が見えました。壊された海防艦があり、陸地はまる焼けになっていました。戦争に送り出されたということは、こういうところに行くことなのかと思いました。自分が乗船する海防艦と同じタイプの艦が潰されて港に浮いており、余り穏やかな気持ちにはなれませんでした」と証しした。
当時の軍部の戦略について渡辺氏は、「米軍が上陸するまでに半数を倒し、上陸後に残りの半数を倒す計画でした。しかし玉砕の経験を何度も重ねているうちに方針が代わって来て、上陸時に上陸した部隊の半数を倒すということをしなくなっていきました。(当時の戦略を振り返ると)負けても良いけれども(戦争を)長引かせるということが、戦争に向けられた最大の課題でした。本土決戦があるにもかかわらず、そのための準備ができていない状態なので、本土決戦を遅らせることがまず大切なことなのだということが出先の部隊に伝えられていて、なるべく長い間抵抗できるように、『少しずつ死んで行く』戦法が取られていました。日本の天皇制の崩壊を遅らせるためになるべく敗北を長引かせていたのだと思います。長期間にわたって少しずつ死んでいって、うんと敗北を遅らせた上で全部死ぬようにというのが出先の守備隊に期待されていたことでした。このことに気が付いた人が日本にもいるのだろうと思いますが、こういう方針で戦争が進められているということは、かなり後にならないと気がつきませんでした。私自身が学徒出陣に入ったわけですが、これも良く後で考えてみますと、天皇制を温存させるために今学生になっている若い者たちを少しずつ殺していって、彼らが死に耐えるまでは天皇制がもつようにしようと上層部が考えていたことはほぼ確かでした。それを見抜くことができなかったことはおろかなことであったと思います」と証しした。