彼は努力した末、独創的なアイデアでミュージックビデオを制作したことがないという経験が足かせになることはなかったと自身のブログに記している。
「ミュージックビデオは高い視聴率を得るために制作すべきだと思われているんだ。(非宗教の)音楽業界にとっては標準的なプロトコルなんだよ。でも僕は、神の御言葉からでなく、そういった文化や音楽業界から善悪の基準を作るきっかけを作りたくないんだ」とリンネは語った。
ミュージックビデオでは、アーティストを神々しい位置に置いて崇拝するという構図が用いられることが多く、自身の神への信仰と葛藤が生じる可能性もある。「非宗教的な音楽業界はこれに気付いていて、アイドル(偶像)としてアーティストの人気を高めるため意図的にミュージックビデオを利用するんだ」
しかし、彼は、「全世界を支配される神の座を『大スター』が占めるべきではない」と語る。
「僕は、ミュージックビデオは想像を根拠とした媒介物であって、この想像について、少なくとも聖書の多くの戒めの光を受けているクリスチャンは慎重的になるべきだと語ったんだ。想像する彼ら自身は必ずしも罪深いわけではないとはいえ、人々を偶像崇拝の気持ちに誘惑することになるかも知れないんだ」
リンネのミュージックビデオは本質的に「罪深く」なかったにもかかわらず、神へ信仰と彼の創造性溢れる才能を示した。それは自分への挑戦だった。
「僕の多くの曲は、無限の大きなひらめき(神、ゴスペル、永遠の運命など)から作られていて、ラップミュージックが小さくなっていくことで、そのひらめきが減少してしまうことを懸念しているんだ。それで、いつでも曲を伝えられる公正な媒介物が欲しかったんだ。もしそうじゃなかったら、ミュージックビデオなんて制作する気にもならなかったよ」また、「もしミュージックビデオの制作が技術も創造性も要らない単純な作業だったら、作りたいなんて思わなかったよ」と彼は語った。
リンネはクリスチャンアーティストとして、宗教と調和させたイメージと歌詞の両方をミュージックビデオを通して表現したかったという。
「映像は歌詞を効果的に表現するよね?僕たちが気が付くのは、クリスチャンアーティストの曲の歌詞が映像と調和していないことなんだ。例えば、曲の中で『神だけへの称賛』と歌ったとする。でも同時に映像にはリムジンから外に出て来るロックスターのようなアーティストがいる。これは極端な例だけど、問題は歌詞とイメージがかけ離れることなんだ。これは単純なミスで、クリスチャンアーティストのミュージックビデオでよく起こるんだ。そんな間違いをしたくないんだよ」と彼は説明した。
独自の視点をもってミュージックビデオに挑戦し続けているリンネは、「もしミュージックビデオを制作しなくなったとしても大丈夫だけど、もう少しこの業界で頑張ってみるよ」と締めくくった。