正直に話しますと、私はこのような否定的な事を言う人たちに以前は憤慨していました。特に私の寄付の動機を懐疑的なものにしようとする人たちの発言には、感情的に傷を受けていました。しかし年が経るにつれて、私も打たれ強くなっていきました。
このような批判にいちいち憤慨していても何もうまくはいかないと言う結論にたどり着いたのです。イエス様は「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです(マタイ5・11-12)」と述べられています。
しかしもし神様がそのような否定的な感情を持つ人々を敢えて私達の人生の中に送ってきておられるとしたらどうでしょうか?このような考えを排除しようとされる前に、聖書の中の二つの話を考えてみてください。
旧約聖書創世記に書かれているヨセフは、兄弟からののしられ、彼自身の兄弟の手によって奴隷として売られました。その後エジプト高官の妻を誘惑したとの虚偽の訴えをされて囚人として数年間生活しなければならなくなりましたが、最終的には彼の汚名がそそがれることになりました。
ヨセフは自分を奴隷として売り飛ばした兄弟たちに対して非常に憤慨することもできたはずです。何年も経過して、最終的にヨセフは兄弟たちと再会することになりました。その時のヨセフはエジプトで絶大な権力と地位を有していました。それゆえ、兄弟たちに復讐をすることは容易であったはずです。しかしヨセフは復讐をする代わりに「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした(創世記50・19-20)」と話しました。
またダビデ王は背信の息子アブシャロムによってエルサレムを追われました。またサウルの家の一族のひとりであるシムイから呪いの言葉を発せられ、石を投げられたり、ちりをかけられたりされました。シムイはダビデ王のすべての罪の事を覚えてさかんに呪いのことばを吐きました。―「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから(Ⅱサムエル16・7-8)」
そこでダビデ王の家来アビシャイが「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください」と言いました。しかしダビデ王は「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう(Ⅱサムエル16・11-12)」と言いました。
否定的なことを言ってくる人たちに対して憤慨するのは容易いことです。しかしもしそのような人々をあなたの前に生じさせるには神様の深い目的があられるのだと考えてみるとどうでしょうか? 神様は私達を本当に愛しておられるからこそ、私達の益のためにそのような人々を私達の前にもたらされることがあるのです。
トーマス・ネルソン 会長(前CEO) マイケル・ハイアット氏
トーマス・ネルソンは世界最大のキリスト教書籍出版会社である。米国内では書籍出版貿易で第7位となっている。同氏のブログ(http://michaelhyatt.com)では、指導者として必要な福音的思考法やウェブサイトによる効果的なビジネス法、出版業界に関するトレンドなどを紹介している。