日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会(東京・杉並区)の創設者、故森山諭師(同教会元老牧師)と故中田羽後師(同教会名誉牧師)の召天記念礼拝と音楽特別集会が8日と9日、同教会で行われた。9日の記念礼拝には、同教会主管牧師の中島秀一師が特別講演、続く音楽特別集会では、クリスチャンで世界的ヴァイオリニストのジョン・チャヌ氏が特別演奏を披露した。
森山諭師は1908年(明治41)、福島県耶麻郡塩川町下遠田に生まれた。1926年(昭和元年)、どこにも救いを見出すことができず、とうとう自殺寸前にまで追い込まれたとき、「己を捨て、己が十字架を負いて我に従え」との聖書の言葉によって、18歳で鮮やかな新生を体験する。
聖霊に迫られて泣きつつ書いた非戦論のために、同師が発刊した月刊誌「待望」は政府の厳しい言論統制で発禁処分となるも、救霊への情熱は、権力に消されるどこかさらに激しく燃え上がり、戦中戦後休む暇なく、文字通り命がけの激しい巡回伝道を繰り広げた。
1951年(昭和26)には日本イエス・キリスト教団創立に参加。58年に東京に赴き、中田羽後師と荻窪栄光教会を創設した。
森山師は教会や教団にとらわれず、超教派の働きを積極的に行った。再臨待望同志会東京大会実行委員長、日本ケズィック・コンベンション財務委員、日韓親善宣教協力会会長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長などを歴任。国際的活動においても、特に韓国に対する謝罪と宣教の思いを強く持ち、戦災孤児のために設置された育児養護施設「木浦(モッポ)共生(コンセン)園」、また旧日本軍の韓国キリスト者への迫害の記録を切実に記した著書「たといそうでなくても」(著アン・イスク)の映画化に協力した。
森山師と共に、荻窪栄光教会を創設した中田羽後師は、1896年、日本ホーリネス教会創立者である中田重治師と妻かつ子の次男として生まれた。日本を代表する教会音楽の権威者として活動し、また聖歌の編纂者としても広く知られた。『リワ"イワ"ル聖歌』(東洋宣教会ホーリネス教会出版部)や『聖歌』(日本福音連盟)はもとより、日本基督教団讃美歌委員会編集の『讃美歌・讃美歌第二編』には「カルバリ山の」「シャロンの花」「キリストにはかえられません」の訳詞が収められている。中でもスロバキア民謡「おお牧場はみどり」の訳詞は、学校の教科書にも採用され、現在も多くの日本人に親しまれている。
中田師が昭和44年に教会へ寄贈した木製の暖かい音色のパイプオルガンは、毎週の礼拝のほか、音楽特別伝道集会、メサイア公演などで多くの人々を魅了し、今も宣教に大きく貢献している。
荻窪栄光教会では、2人の信仰を受け継ぎ、今に伝えていくため、毎年この時期に召天記念礼拝を行っている。同教会の聖歌隊は、中田羽後師が1974年に召天したことを記念し、冬にはメサイア公演、初夏には音楽特別伝道集会を開催し、毎年音楽宣教に励んでいる。