ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会、峯野龍弘主管牧師のコラム3回目です。
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お互いの人生にしばしば大きな試練や苦難が襲ってくる。世の人々はこれを大いなる不幸と呼び、わが身に及んだ悲しむべき災いと受け止める。しかし、お互いキリスト者はそうではない。これを特別な恵みと呼び、大いなる祝福の好機と受け止める。しかもその苦難が大きければ大きいほど、その受ける恵みもまた大きい。
ちなみに人は概して大きな苦難に直面して、初めて謙遜な人になる。なぜなら大きな試練や苦難に遭遇してみてはじめて、いかに自らが小さな存在に過ぎず、限界のある者であるかを謙虚に認め知ることとなるからである。これはお互い人間にとって甚だ良いことである。のみならず極めて大切なことである。そこでお互いの人生における大きな試練や苦難の背後には、概ね以下のような尊い恵みが隠されていることに留意しよう。
先ず第一に、そこにはお互い人間をいよいよ謙遜にし、かつその内に潜む傲慢を打ち砕く大きな恵みが隠されている。使徒パウロもこう述懐している。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(コリ?十二・7)と。おお、主は何とサタンをさえ用いて、お互いの傲慢さを打ち砕こうとされるお方である。ハレルヤ!
第二に、そこにはお互いをより忍耐強く、かつ練達した者にしてくれる大いなる恵みが隠されている。実に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ロマ五・3,4)。そして更にお互いを「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」(ヤコブ一・4)にさえしてくれる。何という恵みだろう。
そして何よりも第三に、そこにはお互いを試練や苦難に遭遇し苦悩している他者を大いに慰め、励まし、癒す者としてくれる恵みが隠されている。何と驚くばかりの“苦難という名の恵み”だろう。使徒パウロは、お互いが苦難に遭遇し、その中から主の偉大な御力により救い出され、その大きな慰めに与かったことこそが、他の同様に試練にあって苦悩している人々の大きな慰めと救いとなるのだという真理を確信していた(コリ?一・4,6参照)。実にヘブライ書には、主イエスご自身でさえ多くの試練と苦難を受けて苦しんでいる人々を助けることがお出来になるのだと述べられている(同二・18)。おお、何という苦難の恵みであろうか。だから苦難を喜ぼう、試練や苦難は大いなる祝福である(ヤコブ一・2,12)。ハレルヤ!
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<峯野龍弘牧師プロフィール>
淀橋教会にて牧会の傍ら、94年ビリー・グラハム東京国際大会実行委員長、日本メディア伝道協議会会長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁、東京大聖書展実務委員長等を歴任。 今年5月には、米アズベリー神学校から名誉神学博士号を授与された。
現在、JEA理事長、ウェスレアン・ホーリネス教団委員長、日本ケズィック・コンベンション中央委員長などを務める。国内、海外のキリスト教界のみならず一般社会でも広く講演活動に従事している。