イエスはこの国において人気がない。驚くほどに人気がない。日本は世界でもインテリ国である。アジア圏においては高等教育が最も進んでいる。その国の人々が国際的に最も有名な人物を知らないし、知ろうともしないのだ。
10年ほど前にイエス・キリストの『パッション』という映画が上映されたときに、アメリカ国民のほとんど全員が観たそうだ。この映画に対する賛否両論の議論が米国全体で起こり、テレビ、新聞、雑誌などが取り上げた。イエス・ファンも多ければ、アンチ・イエスも多いのだ。ファンであろうとアンチであろうと、イエスへの関心は非常に高い。
小説『ダヴィンチ・コード』が映画化され、国際的な議論を引き起こしたが、この映画は「アンチ・キリスト教」、また「アンチ教会」が色濃く出ていた。一つの映画が国際的な論争を巻き起こすのは、とにかくイエスへの関心度が高いからだ。
イスラエルにおいて、イエスは人気がなかったのではない。確かに多くのアンチ・イエスはいたが、彼らはとてもイエスが気になって仕方がなく、四六時中イエスについて思いを巡らしていたのだ。
映画館でも書店でもテレビでも雑誌でも、日本においてイエスはほとんど無視されている。イエスについて出版してくれる出版社はほとんどない。彼らは「イエスは売れない」と思い込んでいるのだが、当たっているかもしれない。
ある面で、非宗教化された世俗色の色濃い日本では、イエスの不人気はしかたがない面もあるかもしれない。
しかし、ここで大きな質問がある。
「イエスは、教会において人気があるのか?」
例えば、今週のクリスチャントゥデイのコラムのアクセスランキングを見てみよう。上位はほとんど佐々木満男氏の「問題解決のためのバイブル」である。イエスに関するコラムは一つあるだけだ。
私も佐々木氏のファンでこの15年ほど彼の書きものを読み続けてきた。(実は、私もこの手のものをイエスについてより先によんでしまう。笑わないでください。)現代に向かって、このような書き方で信徒に、特に未信徒に語ることが有効であることはよく分かっている。また、成功論、積極思考、カウンセリング、ハウツーものなどを用いながら伝えることの必要性も理解できる。それらが用いられることはよいことだ。
しかし、何となくイエスの人気が低下していることは否めないのではないだろうか。これは、キリスト教書店に行けば実感することだ。イエスに関する本が比較的少ない。出版社の方は、聖書的なものよりカウンセリング的なものが売れるのです、と教えてくれる。
長い間「イエス伝」を書こうと試みてきたけれど、イエスについて書くことはなかなか難しい。すでに何百ページも書いたのだが、満足いくものが少なく、本にしようとするたびに途方に暮れるのが私の現状だ。しかし、難しければ難しくなるほど、イエスを知りたいと思っている。
教会内にイエス人気が高まってこそ、はじめてイエスを日本に伝えることができるのではないだろうか。原点に帰らなければならない。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。