イエスのやり方は、当時の伝統的な慣習から見れば、何もかも型破りに見えた。これはイエスが伝統を無視したり嫌ったりしたからではなく、むしろ伝統を重んじ、伝統の心を知っていたからだ。
その一つは、イエスが大勢の女性の弟子たちを持っていたことだ。当時の教師たちは一般的に女性の弟子を受け入れなかった。女性は教育を受けるに足らずとされ、一切の学校教育から外された。小学校に通うこともなかったし、教えるための資格は一切得ることができなかった。当時の女性のほとんどは文盲であった。祈祷書の中には、「主よ。私が異邦人とブタと女に生まれなかったことを感謝します」という言葉があるほど、女性は見下げられていた。
異邦の文化では女の価値は男の千分の一、イスラエルでは五十分の一と考えられていた。しかし、イエスは因習や価値観に囚われず、性の違いから全く自由であった。
そのような時代に、イエスの周りに多くの女性が集まっていたのは、異様な光景であった。イエスがいつも女性に対して敬意を持って向き合っているのは、やはり母マリヤとの関係の反映なのであろう。しかも普通なら敬意を持てないような女性に対しても繊細なやり取りをされたのだ。
サマリヤの女は5回離婚を繰り返したことで、性的な欲望に囚われた自堕落なライフスタイルを生きたと思われがちだ。しかし、イエスは、彼女の罪は不道徳というより、むしろ「的を外した」ことと見たようだ。真のいのちを求めていたのだが、それを結婚によって得られると思い込んでいたのだ。
サマリヤの女の魅力
彼女には男を魅了する不思議な力があったに違いない。2回、3回どころではなく、4回まで離婚していたのに、それでも彼女と結婚を望む男たちがいたのだから、その魅力は半端ではなかった。彼女が男たちに媚びたのではなく、ありのままの魅力にひかれたのだ。彼女はイエスを信じたその直後、大勢の人々をキリストに導いた。巧みな伝道方法やスピーチを用いたのではない、ただ彼女らしく振舞っただけだ。その魅力は何だったのだろう。
1. たたけば響く応答
「どうして、サマリヤの女の私に水をお求めになるのですか」「その生ける水をどこから手に入れるのですか」「その生ける水を私に下さい」。どんどんと正直に本音の応答が帰ってくる。この会話は、イエスにとって楽しかっただろう。この応答の背後に、幼子のような素直な性格が表れているが、彼女は5回の離婚を繰り返したのに、この素直さを失っていなかった。
2. 表情
彼女の言葉から、生き生きした表情が浮かび上がる。けげんな顔、驚いた顔、興奮した顔、感動する顔。心がそのまま表情に現われる。
3. すぐ信じた
先日、公園でサンドイッチを食べていたら、数十羽のハトが寄ってきたが、私のパン切れは、私の手に乗ってきた一羽にほとんど与えられた。彼女はスパッとイエスの懐に飛び込んだ。
4. すぐ動いた
躊躇(ちゅうちょ)がない。迷いがない。もたつかない。ダイナミックにリズミカルに動いたのだ。彼女の行動は心の現われであった。女は「みずがめを置いて町に行き」、「メシヤに出会った」と語ったのだ。
イエスらしさを観察する
町の人々から避けられ、卑下され、人々に心を閉ざしていた彼女は、不思議にもユダヤ人の男イエスに心を開いた。
1. 人格と向き合う
イエスはこの女と一人の人格として向き合った。性別、民族、宗教、歴史的出来事においてサマリヤ人は見下げられていたが、イエスはそれらを超越して、その奥に潜む基本的な尊厳と対峙した。
2. 霊的な話をする
当時、女は霊的なことは理解できないとされ、ラビは決して女に教えようとしなかったが、イエスは霊的な深い現実を語り、この女はそれを受けとめる霊的洞察力を示した。彼女は信仰的洞察を率直に、また的確に語る能力を備えていた。自分の考えをきちんと言葉にする知性と勇気を持っていた。
イエスの全てを受容する振舞いが彼女の心を楽にさせ、彼女の自分らしさを引き出したのだ。その言葉にも態度にも、見下げたり責めたりするものは皆無であった。イエスの心に少しでも裁く思いがあれば、この女は拒絶反応を起こしたに違いない。
3. 賜物を引き出す
彼女の賜物はカリスマ的魅力、喜びに溢れた豊かな感情、伝達力だ。イエスとほんの数十分を過ごしただけなのに、爆発したかのように賜物が一気に噴き出したのだ。今や、新鮮で冷たい水が湧き上がるように、彼女から聖霊の喜びが湧き上がって、多くの人々をひきつけ、キリストを紹介することになった。イエスは彼女の霊的な渇きを知り、その必要を満たした。それこそ、イエスの女性に対する共通で基本的なミニストリーであった。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。