誰にでも、その人を動かすものがある。ひとつの小さな単純な行為にさえ、その背後にそうさせる力が働いている。
つまり、内面の動機が人を動かしているのだ。その動機が強ければ強いほど、個人の行為は、単純ではっきりしたものになる。強い動機をもつ人であるならば、その動機と行為は、直線で結ばれているように分かりやすい。
学歴を求めている人、スポーツでメダルを求めている人、ビジネスの成功を求めている人、アーティストになろうとしている人、伝道に熱心な人。その行為を見れば、動機は明らかである。単純な行為の背後には、単純な動機が働いている。動機が単純であればあるほど、素直に動くことができる。
それでは、イエスは何によって動かされていたのか。福音書の中には、「イエスはあわれんで」ということばが随所にちりばめられている。英語訳では、受動形で「イエスはあわれみによって動かされた(Jesus was moved by compassion)」となっているが、そのような表現は日本語では一般的に用いられない。
ギリシャ語のあわれみに当たるイリーモンは、ヘブル語のヘセッドから派生した。その意味は、「相手の立場に立ってものを見、考え、感じること」である。もし相手がからだを覆うひどい皮膚病で苦しんでいれば、その苦しみや恥や孤独感を、自分のものとして体験することである。この種のあわれみの感情は、ほろりともらい泣きするような、一時的で浅いものではなく、個人の存在の底から湧き上がってくる深いものだ。
ひどい皮膚病でおかされたひとりの男が、イエスの前に立った。「お心ひとつでいやされるのですが」。その時、イエスはあわれみによって動かされ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、彼のからだはきれいになった。
この男は、イエスの手が彼の疾患部に触れたとき、驚いたに違いない。当時の律法によるなら、このような皮膚病もちに触ることは禁じられていた。イエスはそんなことを考える暇がなかったのであろう。心に起こるあわれみの感情が、イエスの手を動かし、その口からことばを出させたのだ。
福音記者マルコは、どうしてイエスが深くあわれんだこと(マルコ1:41)がわかったのだろうか。それはイエスの表情に、あわれみの心が表れたからだ。もちろん、マルコはそこに居合わせなかったが、彼の教師であるペテロがその表情をしっかりと見て、マルコに伝えた(マルコはローマにおいてペテロの説教の通訳者だった)。
イエスは「飼う者のない羊のような群衆を見た」とき、「腹をすかした5000人を見た」とき、「息子を失ったナイン村のやもめを見た」とき、「深くあわれんで」彼らの必要を満たされた。
イエスは、「あわれんでください」という多くの訴えに答えている。
サマリヤの境でイエスのそばに近寄ることさえできなかった重度の皮膚病患者が、遠くから大声をあげて「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と叫んだとき、イエスは彼らの訴えに答え、病を癒やされた。
イエスは、顔をまっすぐエルサレムに向けて進んでいた。その表情には、何者の邪魔も許さないという、十字架に向けての並々ならぬ覚悟が表れていた。そのために、周りにいた弟子たちが恐怖さえ感じるほどであった。
イエスがエリコに入ろうとした時、ひとりの生まれつきの盲人で、物もらいをしていた男が叫び始めた。だがその叫びは、群衆の騒がしい声のためにイエスの耳にはとどかなかった。人々は、彼が黙るようにしかりつけた。しかしこの男は、しかられればしかられるほど、大声で叫んだのだ。
イエスの足がぴたっと止まった。「ダビデの子よ。私をあわれんでください」という叫び声が、十字架にまっしぐらに進む足を止めた。そのことばでイエスは心を揺さぶられ、彼の眼を開いてあげた。
イエスは言った。「だが、わたしは、あすも次の日も進んで行かなければなりません。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです」。イエスは、エルサレムで最後の使命を果たすために、エリコを早々と通り抜ける予定で進んでいたのだ。だがイエスの心は、「あわれんでください」という叫びを無視することはできなかったし、無視することはなかった。
これらの言動は、イエス自身の内面から突き上げてくる感情によるものと観察する。イエスは、その感情を抑えようとしたり、変えようとしたり、隠そうとしなかった。むしろ、その感情に身をゆだね、目であろうと、表情であろうと、手であろうと、ことばであろうと、その感情にまかせたのだ。イエスは、感情が命じるままに動いていた。
イエスが「かわいそうに」とことばで言われたのは、空腹な4000人を見たときの1回だけだが、その他の場合はイエスの表情を見れば明らかだった。目に、顔に、手に、しぐさに、ことばにそれが表れたので、周りの者がはっきりと見て取れたのだ。
イエスは感情の湧き上がるままに自分を出した。出したといっても、意識的に表情を作り出したわけではない。ただ、表情も動作もことばも、感じるままにまかせたのだ。彼は、感情的な男であったに違いない。言いかえれば、感情も行動もことばも一貫していたのだ。だから、イエスの動作もことばも流れるように表れた。
男は、一般的に行動したり語ったりする前に「よく考える」ものだが、その考えることが心と行為を分断してしまう。イエスは、あわれみの情が起こったとき、決して考えなかった。だからイエスの行為には、迷いも躊躇もなかった。すばやかった。
自分のイメージを気にすることも、他人がどう思うかもはばかることがなかった。邪魔されることはなく、自由だった。そのような一貫性のある動きは美しいだけではなく、ダイナミックでもあり、パワフルでもある。
イエスのことばから観察してみよう。イエスはたとえばなしの中で「あわれみ」ということばをどのように使っただろうか。
良きサマリヤ人は、強盗に襲われて半殺しにされた男に近寄り、傷の手当をし、家畜に乗せ、宿屋に連れて解放してあげた。それは彼を見て「かわいそうに」(ルカ10:33)思ったからだと、イエスは説明している。
ぼろぼろになり、恥にまみれた放蕩息子が家に帰って来たとき、まだ遠かったのに、父は走り寄って彼を抱き、口づけした。それは彼を見つけ、「かわいそうに」(ルカ15:20)思ったからだ。
イエスにとって「かわいそうに」という感情は、心の底にいつも脈打っていたものに違いない。
私たち現代の男は、生き生きとしたダイナミックなあわれみの感情を、どこかに置き去りにしていないだろうか。イエスは強い男だった。しかし、その心は決して堅くなく、むしろ柔らかだった。柔軟な心と大胆な行動、このコンビネーションをイエスから学びたい。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。