「あなたの罪は赦された」。イエスは中風の男にズバリ宣言した。彼は全身麻痺で、仲間によって床にのせられたまま連れてこられたのだ。彼の願望は中風のいやしにあった。しかし、イエスは彼を見た瞬間にズバッとゆるしの宣言をした。
そこにいた律法学者たちは、イエスは神を汚している、と思った。なぜなら、神一人の他に罪をゆるすことなどできないからだ。
しかし、イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせるために」と言って、この男をいやされた。彼が床を取り上げて歩いたとき、人々は「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた(マルコ2:12)。
「こういうこと」とは、どういうことだろう。一つは、奇跡的ないやしである。一言で中風の者を立ち上がらせた権威と力について驚いたのだ。もう一つは、罪のゆるしの宣言である。実に、彼らにとって「こういうことは、かつて見たことがない」のだ。
彼らは見たことがないから違和感をもったのだが、私も律法学者と同じように感じないわけではない。こんなに簡単に罪をゆるしてよいものだろうか。彼は、自分の罪をきちんと把握していたのか。
私の違和感はどこから来るかと言うと、彼が悔い改めていないことからだ。「私は罪を犯しました」とも「私は罪深いものです」とも「私の罪を赦してください」とも言っていない。彼が求めているのはいやしであって、ゆるしではなかった。「悔い改めなくても赦されるのか、赦しを求めなくても赦されるのか」。こんな質問が浮かんでしまう。
イエスはなぜ、この男をゆるしたのか。それは、彼がゆるしを必要としたからである。ただ、それだけの理由でイエスはゆるしを語ったのだ。なぜなら、彼の中風の原因は、ある一つの具体的な罪の行為にあるからなのだ。つまり、彼の心の中に巣食っている罪悪感が彼のからだを侵してしまったのだ。罪悪感を取り除かなければ、この男はいやされない。もし、いやされても、病はすぐにぶり返してしまうことを知ったイエスが、ゆるしを提供したのだ。
そこにいた人々だけではなく、旧約聖書のどの時代の人々もこれほど圧倒的でパワフルなゆるしを見たことがなかった。このレベルのゆるしは、数千年かけて書かれた分厚い聖書の中にも見当たらないのだ。
私は今、2つのすばらしいゆるしの物語を思いだす。ヨセフが自分を奴隷に売り飛ばした兄たちをゆるす場面だ。「どうぞ、私にしたことで悩んだり、悲しんだりしないでください。神は私たち家族を救うために、私を前もってエジプトに遣わしたのです」。ヨセフは兄たち一人ひとりの首を抱いて、大粒の涙を流した。しかし、このゆるしの場面に来るまでに、ヨセフは数年間にわたっていろいろな策略をし、兄弟たちを不安の底に陥れた。彼らが罪を思いだし、後悔と苦しみを経験するようにいろいろと仕掛けたのだ。
もうひとつは、ダビデがナタンに姦淫と殺害の罪を「あなたが、その人だ」と糾弾された場面だ。ダビデが罪を悔い改めた時に、ナタンは「主もまた、あなたを赦しました」と宣告した。これらはすばらしいゆるしの物語だが、イエスが「彼がただ必要としたから」提供したものとは雲泥の差がある。旧約聖書の中で、他に力強いゆるしの物語を私は知らない。
イエスは罪人というレッテルを貼られたマタイを救いに導き、そのうえで弟子として招いた。喜んで召しに応答したマタイは、自分の家でパーティーを催す。すると、仲間たちが集まってくる。いわゆる罪人連中だ。イエスは彼らと食卓を囲み、食べたり飲んだりして楽しんでいた。
それを見た律法学者たちは違和感を覚え、「お前たちの先生は、罪人といっしょに食事をしている」と攻撃してきた。イエスは「医者を必要とする者は丈夫な者ではなく病人です」と話され、それから、「人の子は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」とご自分の使命を明らかにされた。イエスはゆるすためにきたのだ。イエスは決して「悪霊追放のためにきた」とも「病人を癒すために来た」とも言わなかった。ゆるしこそ、イエスの基本的なミニストリーだったのだ。
イエスは神だから罪をゆるした、罪をゆるしたのはイエスが神である証拠だ、という話を聞いたことがある。イエスは「人になられた神」ではないと、私は堅く思う。そうではなく、イエスにあって「神が人になられた」のだ。つまり、イエスは正真正銘の人なのだ。そのありさまは人と異なることはない。せっかく人になられたのだから、私たちは彼を神にしていけない、と考える。
「神以外に罪を赦すことができない」は、律法学者の神学である。イエスはそう考えなかったことは明らかだ。復活した後で弟子たちに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:23)。
私たちは弟子たちが神でないことを知っている。神でない弟子たちに、罪をゆるす権威が与えられた。神でなくても罪をゆるすことができるのは、明らかだ。
カトリック教会では、祭司様(あるいは神父様)が、懺悔する者に罪のゆるしを宣言することができる。万人祭司制(すべてのクリスチャンは祭司)を信じている私たちプロテスタント・クリスチャンは、人の罪をゆるすことができるのだ。祭司の主な仕事は罪をゆるすことにあるのだから。
それではなぜ旧約に見ないものを新約で見ているのか。それは、「天が裂けて、聖霊が鳩のかたちをして、イエスにくだった」からだ。天の御国が近づいた。イエスがバプテスマを受けた時に、ついに天が裂けてしまい、御霊が下った時に、罪のゆるしも(悪霊の追放も癒しも)共に下ったからだ。
天が裂けた、そこに旧約と新約の違いがある。そして、天は裂けたままで、その裂け目はつくろわれていないばかりか、裂け目はますます広がっているのだ。ゆるしは、天が裂けて以来、地上に流れ込んでいる。
イエスはペテロに「天の御国のかぎ」を与えた。ペテロが地において開いたら天においても開かれ、ペテロが閉じたら天においても閉じられるのだ。それらはゆるしに関する鍵である。
ついにペテロが天の御国の鍵を使う時が来た。天の裂け目が破れ広がった日である。御霊が「すべての肉なる者の上に注がれた」ペンテコステの日だ。この日、聖霊のバプテスマを受けたペテロは説教するが、その終わろうとするとき、聖霊が働き、3千人の者たちが救われた。ペテロは説教のクライマックスで叫んだ。「それぞれ罪を赦していただくために、イエスの名によってバプテスマを受けなさい」。ペテロが鍵を回した瞬間のことばだ。この日、天の裂け目は広がり、罪のゆるしをもたらす聖霊が激しく地上に降り注いだ。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。