「人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った」(ルカ5:26)。それは、床に寝せられて身動き一つできない男がイエスのひとことばで立ち上がり、歩いたからである。つまり、人々は奇跡的な癒しを目撃したのだ。
天が裂けて御霊がくだり、天の御国が近づいた。それは悪霊追放だけでなく、奇跡的な癒しとして現れた。人々がひどく驚いたのは、かつてこのようないやしを見たことも聞いたこともないからだ。旧約聖書にも奇跡的な癒しの物語は決して多くはない。信仰の父はいた。偉大なるリーダーたちもいた。たくましい勇気のある将軍がいた。輝かしい王がいた。文学者も律法学者もいた。ことばに力のある預言者たちが数多く現れた。しかし、癒しを積極的に行った者はほとんどいなかった。むしろ、エリシャ一人だけであった。あの有名な物語、アラムの将軍がらい病からきよめられたのは、この預言者エリシャによるものだった。
しかし、「人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった」などということは、そのエリシャですら一度もなかった。このようなスケールの癒しは、数千年のイスラエル史上、今にいたるまで皆無だった。なぜならこれこそが、天が裂け、天の御国が侵入したことによる現象だからである。
個人への癒しの記録も多い。イエスはらい病を癒した。ペテロのしゅうとめの熱病を癒した。百人隊長の僕の中風を癒した。12年間長血をわずらっている女を癒した。手が萎えた者、歩けない者、目の見えない者、耳の聞こえない者を癒した。天の御国が激しく地上に突入してきたのだ。
ここで、悪霊追放と癒しの違いを指摘しよう。自分の力で歩ける病人はイエスのもとに自ら進んできた。しかし、悪霊につかれた者は解放を求めてイエスのもとに来ることはなかった。そのような記事は一つもない。イエスが悪霊につかれた者に近づくか、それとも誰かが悪霊につかれた者を連れてきたかである。
イエスから出る聖霊の力によって人々は癒されたのだが、必ず信仰がかかわっていた。病人本人の信仰か、病人の癒しを求めた人の信仰が必要だった。中風もちのしもべが癒されたのは百人隊長の信仰がきっかけであったし、床に寝たまま連れてこられた中風の男が癒されたのは4人の仲間の信仰がきっかけだった。癒しの物語は、また信仰の物語であり、イエスは度々「あなたの信仰があなたを癒した」と言った。
ところが、悪霊につかれた者の信仰については記録されていない。誰ひとり、信仰をもってイエスに近づき悪霊からの解放を求めた者はいない。
さて、くどいようだが、同じ要点を繰り返さなければならない。イエスは主から力を受けた人間として悪霊を追放していたように、一人の人間として癒していた。神の子だからでも、神だからでもなく、あくまでも人として行っていた。
「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。・・・イエスは、主の御力をもって、病人を直しておられた」(ルカ5:16~17)。つまり、ご自分の力によってではなく、主の御力によってである。
ある思い込みが強いと福音書がはっきり書いてあることさえ、素直に理解できないことがある。例えば、イエスは神の子だったから、あるいは神だったから、悪霊を追い出し病気を癒した、という思い込みが広がっている。
福音書にはそう書かれていない。むしろ繰り返し、「御霊がイエスに下った」「イエスは御霊の力を帯びていた」「『わたしの上に主の御霊がおられる』と語った」「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ている」「イエスは、主の御力をもって、病人を直しておられた」
イエスは、なぜ「よく荒野に退いて祈っておられた」のか。癒しの力を主から受けるためである。サタンは繰り返し、「あなたが神の子なら」と誘惑した。イエスは人間として生き、人間として祈り、人間として人々を癒した。第二の人イエスから神のような力が現れ、イスラエル史にかつてなかった奇跡が起こり続けても、第一の人アダムのように「神のようになろう」とは思わなかった。決して人と異なることを求めず、最後の最後まで、死にいたるまで主の僕として主なる神に従った。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。