ついに、イエスは宣教を開始した。自分を公に現す前兆を待っていた。だから、「時は満ちた」が彼の第一声であった。イエスは、先駆者バプテスマのヨハネが国主ヘロデによって捕らえられたのを、宣教活動開始のサインと受け止めたのだ。
ヨハネが捕らえられたその時に彼の仕事は終わり、イエスの時が到来した。ヨハネは、自分からイエスの先駆者であると宣言していた。ヨハネは人々を主なる神へ立ち返らせ、バプテスマを施し、弟子を作り、教育し、信仰のコミュニティ作りなどに多角的に尽力したが、メシヤなるイエスの登場を宣言し、人々の心を備えることを何よりも重大な使命と認識していた。
群衆も宗教指導者もヨハネをメシヤと思ったし期待もした。その姿―らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締めていた―、いなごと野蜜を食する生活、荒野になりとどろく力強い声、権威をもって断言する口調、あふれ出るカリスマ性など、メシヤ待望感はピークに達した。
エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところに来てバプテスマを受けた。大きな出来事が今にも起ころうとしている、彼の雰囲気から人々は察した。
「あなたが来るべきメシヤですか」―人々はヨハネに尋ねた。
ヨハネは答えた。「わたしはメシヤではない」
人々の質問は続いた。「では、一体、誰なのですか」
「荒野で叫ぶ声である。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」
さらにヨハネは、イエスについて証しした。
「私は、水でバプテスマを授けているが、次に来る方は、聖霊と火によってバプテスマを授ける」
「わたしのあとから来られるお方は、わたしより、さらに力ある方だ」「私は、彼のはきものを脱がせてあげる値打もない」
「あの方は盛んになり私は衰えるのだ」
ヨハネはメシヤではなく、その前に遣わされた者であることを自覚していて、その立場から逸脱することはなかった。彼は輝いていたが、光そのものではなかった。彼の光は太陽光線を反射する月の光であった。彼は光について証しするために来たのだ。
このヨハネが捕らえられて牢に入れられ、すべての活動が停止した時、イエスは公の場に登場した。
イエスにとって、成長のためにもメシヤ活動のためにも、ヨハネの存在がどれほど重要であったかは、いくら強調してもしすぎることはない。
イエスはヨハネの弟子となり、天の王国についての教育を受けた。ヨハネからバプテスマを受け、そのとき初めて聖霊に満たされた。イエスがことばのような永続的な存在であるとすれば、ヨハネは、空中に消えていく声であり、その声でイエスを証ししたのだ。ヨハネはイエスの登場のために人々の心を整えた。
ヨハネの入牢は、イエスのメシヤ活動開始の合図であった。そしてヨハネが殉教の死を遂げた時、イエスは「舟に乗り、自分だけで寂しいところに行かれた」のだ。
ヨハネの死
後に起こることだが、ヨハネの最期について書いておこう。
ヘロデ王の死後、パレスチナ国土は3分割され3人の息子たちに与えられ、その結果ヘロデがイスラエル史で王と呼ばれる最後の人物となった。
ガリラヤとペレヤ地方はヘロデ・アンティパスが治めることになった。あるとき、国主ヘロデ・アンティパスは自分の妻を捨てて、自分の兄弟ピリポの妻と一緒になっていた。ヨハネは大胆不敵にもヘロデを公然と非難した。
怒ったヘロデはヨハネを捕らえたが、人気の高いヨハネを死刑にすることは得策でないと考えた。また、暴動が起こる可能性も考えて殺すことにちゅうちょしていた。
しかし、ヘロデよりも激しく怒り憎んでいたのはヘロデヤであった。たまたま、ヘロデの誕生祝いの時に、ヘロデヤの娘が踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。ヘロデは、その娘にほしいものは何でも与えると誓った。母親にそそのかされた娘は「バプテスマのヨハネの首を盆に載せてください」と答えたので、列席の人々の手前、与えざるを得なかった。
ヨハネは最もドラマチックな男である。服装、声、ことば、その登場もその死も劇的であった。(続く)
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。