イエスは一文章も書かなかった。彼は語ったのだ。彼のミニストリーはすべて、ことばを語ることにあった。それでは、書くことと語ることとの違いはどこにあるのだろうか。
語るためには、息を吐き出さなければならない。語るということは、息に乗せられて、ことばが現われることだ。
聖書について何の知識もない人が、つまり神について何の先入観もない人が、聖書の1ページ目を読んだら、どのような神のイメージを持つであろうか。愛の神か、義の神か、聖なる神か、恵みの神か。おそらく、そのどれでもないと思う。
創世記1章が与える神のイメージは、「語る神」である。なぜなら、ごく単純に考えて、「神は仰せられた」と10回も繰り返されているからだ。音読すれば、すぐにそれを感じ取るだろう。
聖書を「神が自己紹介をしている書―神学用語では自己啓示の書」と理解するなら、神はまず「語る神」としてご自身を紹介(自己啓示)している。
神は世界を創造したときに、「ことばによって」だけではなく、「ことばを語ることによって」創造された。ということは、主なる神は「ことば」とご自分の「息」によって創造の仕事をされたことになる。
息とは何だろうか。ルアクというヘブル語のことばは、息とも霊とも訳される。同様にプニューマというギリシャ語のことばも、息とも訳されるが、霊とも訳される。息というのは霊で、霊は息なのだ。語るときには息が出る。語るなら当然、その人の霊が出てくることになる。
人間のからだがつくられたときに、神はまず、ご自分の息を吹き込まれた。そして人間は霊、つまりいのちを持つようになったのだと書いてある(創世記2:7)。息である霊が、いのちを与えたのだ。いのちはからだにあるのではなく、その霊にある。
また、イエスがよみがえられたとき、イエスは弟子たちに現われてご自分の息を吹きかけて言った。「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22参照)。つまり、「いのちの息を受けよ」と言われた。アダムが神からいのちの息を受けたように、弟子たちはイエス・キリストからいのちの息を受けたのだ。
それから40日後、イエス・キリストは天に昇った。それからまた10日経って、ペンテコステの日に天から聖霊を送り、集まって祈っていた弟子たち一同が皆、聖霊に満たされた。ペテロは、「数百年前、『終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐ』と預言されていたことが現実となっているのだ」と語った。
悪霊を追い出すことに関して、イエスはこう言った。「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)。
この聖句は、御霊とも訳され、霊(口語訳)とも訳されるが、先ほど言ったように息とも訳される。もし私が翻訳者だったら、ここを息と訳したい。「わたしが神の息によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来たのだ」ということである。イエス・キリストが吐く息は、神の霊であった。
パウロは、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペソ6:17)と書いた。御霊の剣と訳されているが、ここも息と訳したい。「息の剣を取りなさい」。息の剣とは語ることである。「息の剣、すなわち神のことばを語りなさい」ということだ。
語るというイエスのミニストリーは、ことばと霊によって成り立っていた。彼はサタンに「こう書いてある」と御霊の剣で立ち向かい、悪霊には「出て行け」と叫ばれて御霊の剣を突き付けていたのだ。
このイエスの力は、天が裂けて、御霊がはとのような形をしてイエスの上にくだったことから始まったが、イエスがミニストリーのために、毎日御霊の注ぎを受け続けたことも事実である。新しい霊の注ぎが、みことばの力を解放していた。イエスが語るときには、常にいのちが解放されていたのだ。
◇
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。