最近、ある風刺漫画がイスラム教を侮辱するものとして世界各地で大きな暴動が起こっている。昔からキリスト教勢力とイスラム勢力の対立が文明衝突の形で噴出するだろうということは、サミュエル・ハンチントンを始め多くの識者から指摘されてきたことだ。確かに、イスラム教とキリスト教では教理的に相容れないものがあり対立が必然的に起こる構図になっているといっても過言ではない。
しかし、今回の騒動には宗教間の葛藤というより、人間の傲慢と欺瞞を垣間見ることができる。人々の信心や尊厳を踏みにじるような言説は言論の自由ではない。西欧諸国の極度な人間中心主義が人々の崇高な精神と人間の尊厳まで侮辱する権利はない。
またイスラム原理主義者の暴力行為が火種となっていることは事実だが、原理主義勢力がイスラム全体を代弁しているわけではないことに注意すべきだ。イスラム側の暴力だけでなく、キリスト教側の欺瞞が火に油を注ぐ結果になることを、我々クリスチャンは再認識しなければならない。
キリストの平和はパワーのバランスではない。合理的に敵対勢力に制裁と報復を行うことは簡単かも知れないが、それは緊張関係の均衡が作り出す偽りの平和を作る。福音を知る者が律法的な関係で相手を接するなら、第三者は二つの巨大な唯一神宗教勢力の衝突だと揶揄するだろう。
危機感があるときこそ、真の和解者イエス・キリストの生を黙想し、それに習うべきだ。日本ではイスラム教とキリスト教は多数派ではないので直接の衝突はほとんど無い。しかし、イスラム勢力に限らず、日本でも実生活の上で同じ教訓を適用することができる。
日本のような宗教多元の環境下でキリスト教のアイデンティティを固持することは簡単なことではない。クリスチャンが目指すべきは、宗教混合主義や世の罪に妥協するのではなく、イエス・キリストにだけ仕えることだ。しかし、他宗教の人々との対話は決して独善的、排他的な態度を取ってはならない。多元性を認めながら会話を進めるべきだ。
中東宣教のみならず、異教的な地域や日本の宣教でも、重要なのはクリスチャンが自身のアイデンティティを失うことなく、また独断的な「義人」になることもなく、開かれた心で接することだ。二つの違う側面を均衡よく持つことが必要だ。他宗教、多文化を理解し、その異文化の土台がうまくキリストの根に接木されるように祈り、努力すべきだ。
ヤコブは兄エサウの憎しみと誤解を解き和解を遂げた。イシュマエルの子孫とイサクの子孫が対立するなら、信仰によってイスラエルの子孫となったクリスチャンこそ本当の意味で和解者ヤコブになるべきだ。キリストの平和を実現する和解者の姿を取り戻すとき、本当の意味で勝利者イスラエルと言えるのではないだろうか。