「家庭」という言葉がある。しかし、これでは英語でいう「ホーム」という言葉の意味は表せない。「家庭」では、「庭つきの一戸建て」といった、不動産広告のイメージしか浮かばない。ホームには、もっと温かい、人間の交わりがあり、愛がある。
しかし、わざわざ英語を使うこともないので、家庭という言葉でいいことにしよう。
動物は短い幼児期で親もとを離れるが、人間には長い養育期間がいる。体も心もよく育ち、将来、役立つ人間になるためには、十分に愛護され、教育される必要がある。そこには強者も弱者もない。いや、弱い者こそが保護されて、強者が弱者に仕えるのだ。だから子どもが育つのだ。そのようなところはほかにはない。そのような機能がよく働く場所、それを私たちは家庭と呼ぶ。
成人しても同じことだ。人間はどんなに強い人でも弱さを持つ。強い軍人でも政治家でも、緊張の連続には耐えられない。仕事を終えて帰るとき、そこに憩いの場所があり、愛する人が待っている。そこを私たちは家庭と呼ぶ。緊張なしに話せる人、自分を絶対に受けいれる人、弱さを見せても大丈夫な人―。そういう人との交わりが、人間には必要なのだ。
それなのに、家庭でいちばん不機嫌な夫、家庭でいちばんガミガミいう妻、家庭でいちばん緊張している子どもがいる。不幸なことだ。人間の幸せは、お金があることではない。よい人間関係にあって生きられることだ。いやな人といっしょに住み、緊張しているのがいちばんつらい。緊張しっぱなしの関係は、弱いところが熱を持ち、かならず障害が現れる。病気も離婚も暴力も、長い間の蓄積が出ただけだ。あなたが借家か持ち家か、富んでいるのか貧しいか、そんなことには関係がない。あなたの家庭が立つか倒れるかの分かれ目は、受け入れあう心が、あるかないかにかかっている。
家庭とは、ハウスやガーデンのことではない。人が人として生まれ、育ち、生きるための、もっとも必要な愛の交わりのことだ。結婚だけすれば、子どもを産めば、家だけ建てて芝を植えれば、それで家庭がつくれると思うのは間違いだ。わかっていただけるだろうか。
(中国新聞 1983年7月18日掲載)
(C)新生宣教団
植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。