網走新聞に「母の日によせて」という次のような記事を投稿している。
母の日になると、生活の重荷、運命の重荷、罪の重荷、死の重荷をイエス様に委ねて救われ、天国に帰った母を思い出す。
母の一生は、悲しいことで満ちていた。特に長男(私の兄)が脳膜炎であったために、母は詫びて歩くことも多かった。留守の家に行って火を炊いたり、女の子を追い回したり、親戚の家を泊まり歩いた。無賃乗車をしたり家出したりした。
甥を人質にして金を奪ったりした。私たち兄弟は小学校の頃は仲良くして評判であったが中高生になると、この兄が邪魔でしかたなかった。「どうしてこんな兄を産んだのか」と母に泣いて訴えた。家出して新聞の記事になることもあって、早く兄が死んでほしいと本気で願った。無能な兄の世話を死ぬまでするなんて考えるだけでいやであった。それどころか結婚にも差し支える。果たして貧しい農家であり、暗い家に好んで嫁に来てくれる人があるだろうか。
高校生の頃、兄が二カ月ほど行方不明になったことがあった。きっと今頃兄は死んでいるであろう、これで重荷がなくなったと喜んだ。しかし、そうでなかった。東京の山手線の電車の中で浮浪児のような姿で生きていると連絡があった。私はがっかりした。なぜ死ななかったのだろう。喜んでいる母。がっかりしている私。冷たい心の持ち主であった。
母は頭の毛は伸び、服もズボンも汚れて、臭くなっている兄を喜び迎えてタライを出して足を洗ってあげたり、頭を刈ってあげた。母が兄を大事にすればするほどいらだった。
私は数年たってキリスト教会に行った。ルカによる福音書十五章の放蕩息子の話を聞いて、母と兄のことを思い出して感激した。
断絶の社会、断絶の家庭が多いが私の家庭は破壊寸前であった。親子が兄弟が一致できない毎日であった。長野県松本工業高校の卒業式の日に父の行方がわからなくなった。翌日父が発電所の導水路に投水自殺をしたことがわかった。兄の世話をしたくない私は、できるだけ家から離れたところに就職したいと願って、名古屋の三菱重工に就職が決まっていた。父はこのことを悲しんで自殺したのだろうか。父の写真の前に三枚の賞状を飾ったが、割り切れない問題が残った。
私は、泣き上戸と言われるほど酒が好きであった。あまりにも次から次へと続く悲しみの憂さ晴らしであった。
就職してから一年もたった頃、友人に誘われて教会に行った。私の本当の姿を教えてくださったのはイエス・キリストである。聖書を読むことによって、責任転嫁の罪を示された。父母が悪いから、兄が悪いから私が不幸だと思った。不満と憎しみに満ちていた。しかし不幸の原因は私の自己中心にあることがわかった。私の罪の身代わりとなって十字架に死に復活してくださったイエス・キリストを信じて私は救われた。
私自身のすべての罪が赦されたことを信じて兄に対して本当の愛がわいてきた。気晴らしの酒もいらなくなった。母を心から尊敬するようになったのはイエス様を信じてからである。
母の日はアメリカの教会学校の女の子から始まったといわれる。イエス・キリストを信じて十四回目の母の日を迎えるが、今年は青年会を中心に礼拝後お母さんを招いて会食をしたいと計画している。犠牲の多い母、一番手のかかった乳を飲ませた頃や、おしめを換えてあげたことをすっかり忘れている母、この母に少しでも感謝する母の日でありたい。
網走西小五年生の町屋拓代さんの、母の日の詩を紹介したい。
私のお母さんは天気のようなお母さんだ。一日のうち何度も顔色や、声などを変える。それは、私や弟が直ぐけんかなどをしてしまうからだ。私はお母さんを怒らせないように出来るようにお祈りをしている。お母さんは私たちのために声を出してお祈りをしてくれている。そんなお母さんを見ていると、とてもありがたいと思う。お母さんは、やはり感謝をしなくてはならないと思う。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。