「聖神中央教会」(京都)の代表牧師が婦女暴行の疑いで逮捕された。
この教会内では徹底した言論統制が敷かれていた、とメディアが伝えている。被害にあった少女たちの発言と情報交換、信徒たちの一致団結によって、十数年前からあったとされる容疑者の言動がついに明るみに出た。
事件発覚から最近まで自らの導き手として容疑者の無実を信じ事件の全容解明を待っていた同教会教会員にも退会が相次ぎ、教会総会で容疑者を解任するなど、教会再生に限りを尽くす人たちの健気な姿が痛ましい。
信徒の発言の自由が保護され尊重されることは、民主主義思想の土台ともなったキリスト教思想を掲げる教会が健全に運営されるための絶対条件だ。言論の自由なき教会は、やがて腐り果て、あるいは既に堕ちている。
確かに、牧師に対する敬意と従順は、かつて神から離れた魂が御国へと導かれるためには、必要だ。個人の権利が過度に加味されるあまり、生まれながらにして神の御怒りの下にある罪人「人間」が、ふらふらと地獄まで一直線に歩いてしまうことが決してあってはならない。
だが、権力の集まるところに堕落に対する緊張感もある。地上での使命が神から与えられたものであることを忘れるとき、人は己の欲望に向かって貪欲に突き進む。暴走した人間はもはや神の声に耳を傾けず、悔い改めを忘れ、他者に発言を許さない。
人間関係のこじれをみると、言論の潮流がせき止められていることが少なくない。一方的な情報の流れ、または、一方あるいは双方による情報の遮断だ。情報統制は北朝鮮をはじめとする共産圏の常套手段であり、民主主義とは相反する体制だ。
キリスト者は、一人の人として神との垂直的な関係を保つとともに、人と人との水平的な関係において互いの声に心から耳を傾けるべきだ。言論が正しく循環することで教会は浄化され透明性を増し、活力を得る。
また、報道の一部には、異言の伴う祈りや信徒同士が身体を叩き合うなどの激励がカルト集団の一要素であるかのような論調がある。教会は今こそ渦中の教会を励まし、内外に向けて発言し、「何が悪かったのか」を見定める手助けをしてキリスト教に対する誤解を防ぐべきだ。
聖神中央教会で信徒たちの言論の自由が保護されていれば、容疑者の行き過ぎた言動も、あるいは未然に防ぐことが出来たかもしれない。