この手紙を書いたイエス様の弟ユダは、当時の教会に不敬虔な悪い人々が忍び込んだことを知らせ、自分たちの信仰を守り通すよう教えています。
1. エノクの預言
アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる」(ユダ14)
「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク」(1歴代誌1:1〜3)
「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(創世記5:24)
「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった」(黙示録5:11)
エノクの話は、聖書に少ししか出ていません。しかし、エリヤ、モーセ、エノクと書き並べると、3人とも神によって天に上げられた人です。神に喜ばれた重要な人物であることが分かります。
さらに、このエノクの預言は、旧約聖書外典にあるエノク書から引用されています。エノク書とは、紀元前200年ごろ完成したエチオピア語で書かれたものが知られていて、エチオピア正教会では正典です。
また、1947年にクムラン洞窟で発掘された旧約聖書写本で、死海文書と呼ばれたものの中に、アラム語エノク書の断片がありました。アラム語は、紀元前1000年ごろからシリア地方で使われていた言葉です。
エノク書は、ノアの箱舟やモーセによる出エジプトなどの預言が書かれている、預言中心の黙示文書で、天使や堕天使などについてもハッキリと書かれた霊的な書物です。また、天と地の運行が365日であることや、4年に1回修正しないと季節がずれることなども書かれています。
14節を引用聖句とギリシャ語原典を加味して解くと「①彼ら、信仰者をねたむ者たちは、(カインのように)行いが悪いので悪魔の子どもとして呪われ、②彼ら、自己利益のために預言する者たちは、(バラムのように)神の怒りで命が呪われ、③彼ら、神のしもべに背く者たちは、(コラのように)生きながら黄泉の力で呪われるのであって、アダムから7代目のエノクが預言したのは、このような不敬虔な者に対してで『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる』と、再臨のキリストによる最後の審判について言っており、ついに不敬虔な者は裁かれます」となります。
2. 主への犯罪と無礼
すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。(ユダ15)
「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た」(ダニエル書7:9〜11)
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(黙示録20:12〜15)
紀元前600年の預言者ダニエルが再臨のキリストを預言しました。聖なる白い衣を着た神の子羊が最後の審判の座に着かれ、火による最後の裁きが行われる場面です。炎の御座と、その前に立つ幾千の殉教聖者と幾万の聖なる御使いがいて、統治者キリストにより幾つかの書が開かれ、悪魔に属する者は皆、刑罰の火に投げ込まれます。
紀元90年の使徒ヨハネがイエス・キリストの黙示を書きました。ここでも再臨のキリストによる最後の審判が預言されています。死後の裁きを受けるため、有名な者も無名な者も全ての人が主キリストの御前に立ち、罪状書きの数々といのちの書が開かれ、書き記されていることに従って裁かれます。いのちの書に書き記されていない者は、死とハデスの中にいて、永遠の刑罰の火の池に投げ込まれ、第二の死となります。
15節を引用聖句とギリシャ語原典とで解くと「天地の主としてキリストが再臨するのは、有名無名に関係なく全ての者に裁きを行い、不信仰である不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為と、主に言い逆らった無礼のいっさいとについて彼らを罪に定め、死とハデスごと刑罰である火の池の中に投げ込む第二の死のためである」となります。
3. 不敬虔
彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。(ユダ16)
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け」(マタイ25:31、32)
イエスがオリーブ山で、弟子たちに世の最後について預言した内容です。神であり、人であるイエス・キリストが、天地の統治者として栄光を帯びて幾万の御使いたちを伴って再び来られるとき、全ての人と全ての御使いに対する最後の審判を行う栄光の座に着きます。そして、速やかに裁きが行われ、主キリストは御国に入れられる神の子たちと、火の池の中に投げ込まれる悪魔の子たちとを分けます。
16節をギリシャ語原典と引用聖句を加味して解くと「不敬虔な者として裁かれる彼らは、出エジプトの後に滅んだ人たちのようにぶつぶつ言う者であり、権威を欲しがって生きながら地に下った人たちのように不平を鳴らす者であり、高慢で大きなことを言い、自己利益のためならへつらって人を褒める、自分の欲望のままに歩んでいる者たちです」となります。
まとめ
神が天地万物を創られたときのご計画は、世の最初から最後まで変わることがなく、エノクの預言から使徒ヨハネの黙示録まで一貫して、不信仰で不敬虔な者たちに対する最後の審判での裁きが啓示されています。人は皆、悔い改めて神に立ち返り、永遠の滅びから救われる必要があるのです。
万物の神による聖書が、神の民に教え、戒めてきた事柄は、神と神のしもべにぶつぶつ不満を言わず、権威を不当に欲しがって不平を言わず、自己利益のために行動したり、へつらったりせず、高慢で大口をたたかず、ねたみで悪を行わないことです。私たちの言動は全て、天にある数々の書物に書き記されています。もしいのちの書に自分の名が書かれていれば、私たちは御国に入れられるのです。
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