今回は、第1ヨハネ書3章4~24節を読みます。上の三様態の図を基にして、第5回では真理を、第6回では愛を、第7回では永遠の命を、それぞれ中心にお伝えしてきましたが、今回の箇所は、これら「真理」「愛」「永遠の命」が複合的に記されているといえます。
「罪を犯さない」ということ
4 罪を犯す者は皆、不法を行っています。罪とは不法のことです。5 あなたがたが知っているように、御子は罪を取り除くために現れました。御子には罪がありません。6 御子の内にとどまる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいないのです。
7 子どもたちよ、誰にも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子が正しいように正しい人です。8 罪を犯す者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にとどまっているからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
第1ヨハネ書は1章10節で、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」と伝えています。上記の箇所において「御子の内にとどまる人は皆、罪を犯しません」とされていることは、正反対の論理であるように思えます。
私たちは、洗礼を受けて信仰の道を歩み出しても、自分が罪を犯さない者になることはできないことを知っています。ですから、1章10節の言葉の方がしっくりくるわけです。このことは、19歳で洗礼を受けた私にとって、その時の一番の課題でした。「良い人間になりたい」と思って洗礼を受けたにもかかわらず、全くそのようにはなれなかったからです。
そんな折り、教会の修養会で講師のある先生のお話を聞いて、大変納得したことを覚えています。その時に示された聖書の箇所は、ローマ書5章2節の「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」という御言葉でした。
そこで説明されたことは、「聖化」と「栄化」でした。「私たちはこの世において神の栄光にあずかることはできない。神の栄光にあずかるとは、終末の日の『栄化』のことなのだ。私たちは、人生の歩みにおいては、神の栄光にあずかる日を目指して、罪を犯しつつも『聖化』という希望の中を歩んでいくことができる。それが、イエス・キリストの十字架による赦(ゆる)しということなのだ」と教えられたのです。
ここでの「御子の内にとどまる人は皆、罪を犯しません」とは、「『日々の歩みにおいて個々の罪を犯すことはあっても、イエス・キリストの十字架の前で、希望の日に向かって立ち返り(悔い改め)のある歩みをしていくことができる』ということにおいて、『自分は罪を犯していない』という傲慢さから離れることができる」という意味での「罪を犯さない」ことであろうと私は考えます。
9節の「神の種がこの人の内にとどまっているからです」における「神の種」とは、前回お伝えした2章20節の「あなたがたは聖なる方から油を注がれている」における「油」と同じで、聖霊を意味しているのでしょう。聖霊によって、神様が私たちの内にとどまっているということです。この「とどまる」は、ヨハネ福音書とヨハネ書簡において大切な言葉「メノー / μένω」です。
兄弟を愛する
10 これによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者は皆、神から出た者ではありません。きょうだいを愛さない者も同様です。11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたが初めから聞いている教えだからです。12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者から出て、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
13 きょうだいたち、世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。14 私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。きょうだいを愛しているからです。愛することのない者は、死の内にとどまっています。15 きょうだいを憎む者は皆、人殺しです。人殺しは皆、その内に永遠の命をとどめていないことを、あなたがたは知っています。
16 御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。17 世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐(あわ)れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
聖書協会共同訳では、「アデルフォス / αδερφός」というギリシャ語の言葉を、「兄弟」と「きょうだい」に訳し分けています。前者が血のつながった兄弟であるのに対して、後者は血がつながっているとは限らない、信仰共同体(教会)におけるそれを指しています。旧約聖書において示されるイスラエル共同体は、血がつながっていなくても同族意識が強かったことが、2つを分けていないことの背景にあるともいわれています。
今回のこの箇所では、「兄弟」と「きょうだい」が両方示されています。前者は創世記4章のカインとアベルの兄弟であるのに対して、後者は信仰共同体の隣人を指していますが、上で記しましたように、原語においては同じ言葉であり、同じ意味のこととして書かれていると理解してよいでしょう。ここでは、信仰共同体の隣人についても「兄弟」と表記します。
兄のカインは弟のアベルをねたんで殺害してしまったのですが、そのことを反面教師にして、兄弟を愛しなさいということが説かれています。兄弟を憎む者は人殺しであり、カインと同じく兄弟の命を奪うものであり、そうではないようにとされています。それが、イエス・キリストを模範とすることです。
16節に出てくる2つの「命」は、これまでヨハネ書簡で見てきた、終わりのない命(ゾーエー / ζωὴ)ではなく、終わりのある命(プシュケー / ψυχὴ)で、すなわち身体の命です。御子が私たちのためにその命を捨ててくださったのだから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきであるとされています。けれども「命を捨てなさい」と言われても、「それはできない」と思うのが普通でしょう。
しかし、ここで「捨てる」と訳されている「ティテーミ / τίθημι」は、幅広い意味のある言葉で、「賭ける」「脱ぐ」という意味も包含しています。ですから、兄弟のために「命を賭ける」「一肌脱ぐ」というように読めばよいと思います。そのように兄弟を愛しなさいということであり、そうすることが、私たちの内に「永遠の命」がとどまっていることを示すと言っているのでしょう。
イエス・キリストの十字架の真理
19 これによって、私たちは真理から出た者であることを知り、神の前に心を安らかにされるのです。20 たとえ心に責められることがあろうとも、神は、私たちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。21 愛する人たち、心に責められることがなければ、私たちは神の前で確信を持つことができます。22 願うものは何でも、神からいただくことができます。私たちが神の戒めを守り、御心に適うことを行っているからです。
23 神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです。24 神の戒めを守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。
私たちの存在とはどのようなものでしょうか。スポーツで栄誉を得たならば、大きな満足に浸ることができるかもしれません。学業である分野を修めたならば、内心は得意満面であるかもしれません。しかし、どのようなことを成し遂げても、私たちには限界があり、自分は小さな存在であることに気付かされます。
ここでは、そのような小さな存在である私たちよりも、神様ははるかに大きく、私たちがその神様の前に立つならば、心が安らかにされるとしています。私たち人間は小さな存在ですが、それが卑下という方向ではなく、謙虚という方向に向かわせるということだと思います。イエス・キリストの十字架の「真理」は、私たちを父なる神の義の前に立たせてくださるのです。
そして、私たちが兄弟を愛するならば、私たちが願うものは何でも与えられるとされています。「願うものは何でも与えられる」ということは、イエス様も語っておられたことです(マタイ福音書7章7~11節)。このことは、今直ちにかなえられることではないかもしれません。しかしそれは、信仰者の「希望」という範疇におかれていることだと思います。与えられることを、「イエス・キリストの永遠の命」の中に待ち望むということです。
永遠の命の中に待ち望むとは、愛の内に生きるということでもあります。私が所属している日本基督教団の信仰告白の中に、「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」というくだりがあります。これは私が大好きな部分です。永遠の命の中を歩まされる日を待ち望みつつ、互いに愛し合うことに励むということです。
互いに愛し合うことは、ヨハネ共同体においてとても大事な戒めでした。それは今日の教会でも同じであり、この戒めを守るなら、「私たちは神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださる」というのが、今回の箇所の結論的なことだといえるでしょう。(続く)
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