今回は、第2ヨハネ書12~13節と、第1ヨハネ書1章1~4節を読みます。私は、3つのヨハネ書簡は一体的なものであると考えていますので、この2カ所を一緒に読んでよいと思っています。なぜ一緒に提示するかといいますと、ここには共通する一文(下線部分)が書かれており、そこに第2ヨハネ書と第1ヨハネ書の一体性を感じていただきたいからです。
(第2ヨハネ書)
12 あなたがたに書くことはたくさんありますが、紙とインクで書こうとは思いません。私たちの喜びが満ち溢(あふ)れるように、あなたがたのところに行き、親しく話したいと思います。13 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。(第1ヨハネ書)
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。―― 2 この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。――3 私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。4 私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。
紙とインク
第2ヨハネ書12節の「紙」とは、パピルスのことです。また、その長さから、第2ヨハネ書はちょうどパピルス1枚の手紙であるとされています。そして、それは第3ヨハネ書についても同じです。そうしたことから、「第2ヨハネ書と第3ヨハネ書は、第1ヨハネ書の添付書状である」という説があり(第1回参照)、私はその説を支持しています。
一方、「インク」とは、今日で言うなら、硯(すずり)で磨った墨のことでしょう。あまり詳しいことは分かりませんが、聖書の時代にも固形の墨を水で溶き、葦(あし)で作ったペンで、パピルスに文字を書いていたようです。この手紙の筆者である長老は、「書くことはたくさんありますが、紙とインクで書こうとは思いません」とつづっています。
共通する一文
そして、むしろ「私たちの喜びが満ち溢れるように、あなたがたのところに行き、親しく話したいと思います」と述べています。この「私たちの喜びが満ち溢れるように」という部分が、第1ヨハネ書1章4節の「私たちの喜びが満ち溢れるように」と、ギリシャ語原文においても全く同じなのです。
「私たちの喜びが満ち溢れるように」という一文は、恐らく「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ福音書15章11節)、「私の喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるためです」(同17章13節)といったイエス様の言葉が、ヨハネ共同体において慣用化されたものだと思われます。
私は、この一文が両者において全く同じ形で書かれていることに、この2つの手紙の一体性を感じ、第2ヨハネ書は第1ヨハネ書の要約版ではないかと考えているのです。いずれにしても、今後読んでいく第1ヨハネ書には、既に読んできた第2ヨハネ書の内容(真理、愛、異端者など)が展開され詳述されていると考えると、第1ヨハネ書が理解しやすくなると思います。
ヨハネ福音書の序言との類似性
3つのヨハネ書簡とヨハネ福音書を合わせて「ヨハネ文書」といいます。「ヨハネ文書」にはヨハネ黙示録を入れる場合もありますが、今日ではそのような主張はあまりなされません。そのため、本コラムにおいては、3つの書簡と福音書だけを「ヨハネ文書」とします。今まで第2ヨハネ書と第1ヨハネ書との関連を見てきましたが、第1ヨハネ書の序言が、「ヨハネ文書」であるヨハネ福音書の序言とよく似ていて、それぞれに関連があることも、両者を読み合わせるならば瞭然となってきます。
特にその書き出しは、第1ヨハネ書は「初めからあったもの」、ヨハネ福音書は「初めに言(ことば)があった」となっていて、類似性が顕著です。しかし、この「初め」という言葉の意味は、両者で違いがあるようです。ヨハネ福音書の「初め」は「先在のロゴス(言)」が神と共にあった「創世以前」(創世記1章1節参照)を指していますが、第1ヨハネ書の「初め」は「受肉したロゴス(言)」としての「命の言」であるイエス様が、この世に――つまり、歴史上に――現れた「初め」を指しているとされます(三浦望著『NTJ新約聖書注解第1、第2、第3ヨハネ書簡』92~93ページ)。
そもそも、第1回でお伝えしたように、第2ヨハネ書の5節には「私が書くのは新しい戒めではなく、私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということです」という一文があります。この場合の「初め」は、イエス様が最後の晩餐で弟子たちに遺した言葉がヨハネ共同体において信仰訓とされていたことを示し、「イエス・キリストが、この世に――つまり、歴史上に――現れた『初め』」を意味しているのです。
第2ヨハネ書と第1ヨハネ書は一体であるわけですから、第1ヨハネ書の序言の「初め」も「創世以前」のそれではなく、ヨハネ共同体における「初め」であることが想定されます。ただ、第1ヨハネ書の序言の「初め」が、ヨハネ福音書の序言の「初め」と別個に書かれたわけではなく、第1ヨハネ書の序言はヨハネ福音書の序言を模倣しているということはいえそうです。
ヨハネ福音書の「道・真理・命」と第1ヨハネ書の関連性
さらに、第1ヨハネ書の書き出しは「すなわち、命の言について」と続き、「命の言」という語においても、ヨハネ福音書の序言の「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1章4節、新共同訳)と類似しています。そして、この「命」は「永遠の命」と同義です。ヨハネ福音書がそうであったように、「命」「永遠の命」がこの手紙を通して繰り返されます。
この類似性などから、第1ヨハネ書に見られる「命」に、ヨハネ福音書14章6節で伝えられている「私は道であり、真理であり、命である」というイエス様の言葉をつなぎ合わせたいと思います。ヨハネ書簡集全体を読むに当たって、この書簡集では「道・真理・命」という言葉が展開されていることを見ていきたいと思います。
「真理」という言葉は、既に第2ヨハネ書で示されていましたが、第1ヨハネ書でも繰り返されます。「道」という言葉はヨハネ書簡集の中にはありませんが、それが指し示していることは、特にこの第1ヨハネ書における、愛についての叙述の中に見いだせると思います。ですから、その展開を分析することを通して、「道・真理・命」というイエス様の言葉が、ヨハネ共同体の中でいかに大切にされていたかを読み取りたいと思うのです。
父・子・聖霊の神との交わり
3節に、「私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあります。前述の「道・真理・命」は、イエス様の言葉であると同時に、そこを通ることにおいて父なる神との交わりがなされるものです(ヨハネ福音書14章6節「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」)。
ヨハネ共同体においては、このようにして御父と御子との交わりを大切にしていました。そしてそれは、御父と御子との交わりが、それを規範として、ヨハネ共同体における兄弟姉妹との交わりの中にも実現していることを意味しています。
さらに、パウロが「聖霊の交わり」(第2コリント書13章13節)と書いていることについても、私は「御父と御子との交わり」に加えて、「父と御子と聖霊との交わり」と、「三位一体の神との交わり」として考えています。
私たちは、今日における信仰の歩みにおいて、「『父と子と聖霊なる三位一体の神との交わり』を規範として、兄弟姉妹との交わりを続けていく」と、私は考えているのです。(続く)
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