ヨハネ書簡集について
73回にわたって「ヨハネ福音書を読む」を執筆してきましたが、今回からはヨハネ書簡集を読んでいきます。ヨハネ書簡集といいますのは、第1ヨハネ書、第2ヨハネ書、第3ヨハネ書(聖書協会共同訳では「ヨハネの手紙一」「ヨハネの手紙二」「ヨハネの手紙三」)のことをいいます。この書簡集は、ヨハネ福音書との関連も大きいといわれています。
伝統的には、ヨハネ福音書とヨハネ書簡集は共に、ゼベダイの子ヨハネによって書かれたといわれてきました。しかし、「ヨハネ福音書を読む」でお伝えしてきましたように、聖書学においては、ヨハネ福音書の著者がゼベダイの子ヨハネであるという説は、今日では受容されていません。
同様に、ヨハネ書簡集の著者がゼベダイの子ヨハネであるという説も、今日の聖書学においては受容されていません。これらの議論はかなり込み入っているところがあるため、本コラムではそうしたことを細かくお伝えすることはしません。
私が明らかにしたいことは、ヨハネ福音書とヨハネ書簡集がどのように関連しているか、また、そこから浮かび上がってくる共通項から、神様からのメッセージとして、何を受け取れるかということです。「愛」「永遠の命」「真理」「とどまる」といった言葉が共通項を形成していると思われますが、これらはいずれも聖書を読む上で大事な言葉です。
ヨハネ書簡集はヨハネ福音書と共に、「ヨハネ共同体」といわれていた一つの教会の中で、その教会の成長と共に書き上げられてきたといわれています。そして、第1ヨハネ書が本論であり、第2ヨハネ書と第3ヨハネ書は添付書状だという説があります。私もその説に同意しています。
さらには、第2ヨハネ書は前書きに当たり、第3ヨハネ書は後書きに当たる添付書状であると私は考えています。そこで本コラムでは、第2ヨハネ書→第1ヨハネ書→第3ヨハネ書の順で考察しながら、お伝えしていきたいと思います。
真理と愛
それでは、第2ヨハネ書の本文を読んでみましょう。
1 長老の私から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私は、あなたがたを真理の内に愛しています。私だけでなく、真理を知る人は皆、あなたがたを愛しています。2 それは、私たちの内にとどまる真理によることで、真理は永遠に私たちと共にあります。3 父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。
4 あなたの子どもたちの中に、私たちが御父から受けた戒めのとおりに、真理の内に歩んでいる人がいるのを見て、私はとても喜んでいます。5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい戒めではなく、私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということです。6 愛とは、御父の戒めに従って歩むことであり、この戒めとは、あなたがたが初めから聞いているように、真理の内に歩むことです。
「長老」と名乗る差出人が、手紙を執筆しています。ヨハネ福音書とヨハネ書簡集の著者がゼベダイの子ヨハネであるという説が、今日の聖書学では受容されていないことは既に述べた通りです。私は、ヨハネ福音書が、その追記とされる21章の執筆者によって、「愛弟子」が著者とされていること(ヨハネ福音書21章24節)、そして、ヨハネ福音書の著者とヨハネ書簡集の著者は同一と思えることから、「長老」は「愛弟子」であろうと考えています(これらについては、後日改めて詳述します)。
では、手紙の受取人である「選ばれた婦人」とは誰でしょうか。これについて私は、「ヨハネ福音書を読む」の第43回などで、ラザロの姉妹であるマルタの信仰と、後の教会における彼女の役割を論じてきたことに鑑み、またこの婦人をマルタであるとする聖書学者がいることなどから(ハンス・ヨーゼーフ・クラウク著『EKK新約聖書注解XXIII/2 ヨハネの第二、第三の手紙』46~47ページ)、マルタが有力だと考えています。
そうなりますと、「ヨハネ福音書を読む」の最終回でもお伝えしましたが、愛弟子はラザロの可能性もあり、もしそうなのであれば、兄が姉妹に宛てて書いた手紙ということになりますが、それは十分にあり得ることです。ラザロ、マルタ、マリアの3人きょうだいが、ヨハネ共同体の中心的な人たちであったことは十分考えられることです。
手紙の受取人である婦人がマルタだとするのは、有力な説だとしても一つの仮説に過ぎません。しかし、もしそうだとすれば、マルタが牧会していた家の教会のメンバーは、ここでは「その子どもたち」と書き表されています。
続けて、「真理」という言葉が6節までに7回繰り返されますが、「真理」とはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのことです。この書き方は、ヨハネ福音書の「真理」の書き方と同じであるばかりか、ヨハネ福音書が伝える「真理」が、十字架につけられたキリストであることを裏書きしているともいえましょう。「真理」は、ヨハネ福音書とヨハネ書簡集の共通項となっている言葉の一つです。
5節後半の「私が書くのは新しい戒めではなく、私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということです」という言葉も、ヨハネ福音書、そして第1ヨハネ書、第2ヨハネ書に共通するメッセージです。
ヨハネ福音書13章で伝えられている、イエス様が最後の晩餐の席で弟子たちに遺された言葉「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」(34~35節)が、いわばヨハネ共同体の信仰訓になっていたことが、この第2ヨハネ書の「私たちが初めから持っていた戒め」という言葉によって分かります。
この言葉は、神様の愛を基にして、隣人愛を貫きなさいというものです。最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちの足を洗われた話などと共に、ヨハネ共同体の中で繰り返して語られてきたのでしょう。それは、第1ヨハネ書の中でも繰り返されていて、第3ヨハネ書のメッセージともなっています。やはり、ヨハネ共同体における信仰訓であるからこそ、それぞれの文書に遺されているのです。
本コラムでは今後、こうしたことを読み取っていきたいと思います。(続く)
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