今回は、第1ヨハネ書2章1~14節を読みます。
異端者たちの批判
1 私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2 この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥(なだ)めの献(ささ)げ物です。
3 私たちは、神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります。4 「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、その人の内に真理はありません。
第2回において、「短い第2ヨハネ書は、少し長めの第1ヨハネ書の要約版とみることができる」という私の考えをお伝えしました。つまり、第2ヨハネ書が詳細に展開されているのが第1ヨハネ書といえるのです。2章からは、そのことがより明らかになっていると思います。
第2ヨハネ書は、「長老の私から、選ばれた婦人とその子どもたちへ」(1節)と書き出されていました。第1ヨハネ書2章は、「私の子たちよ」と書き出されています。両者とも親子関係における子ではなく、「神の子」である同じ信仰共同体の年長者たちから見た「子どもたち」「子たち」という言葉であろうかと思います。
このような類似から、第1ヨハネ書の宛先教会は第2ヨハネ書の宛先教会と同じなのか、という問いが出ると思います。私は同じ教会である可能性は十分にあると考えています。第2ヨハネ書の宛先教会は「家の教会」です(10節に「家に入れてはなりません」とある)。第1ヨハネ書には、家の教会であることを示す言葉はありませんが、初代教会時代の異邦人教会は大方が家の教会でした。ですから、それぞれが家の教会に対して送られたものであることはいえると思います。
少なくとも、両者とも同じヨハネ共同体の教会ですから、同じ問題が共有されていたとはいえるでしょう。さらに、2つの書簡が一つの家の教会に宛てて書かれたことが、ヨハネ共同体全体に語られていることと見ることもできるはずです。
2つの書簡の宛先教会が同一であることが、聖書学的に正しいかどうかは別にして、同一であるとすることにより、第1ヨハネ書で展開されている問題の内容が、第2ヨハネ書の内容の延長線上にあると理解して読んでいくことができます。それは、既に第2ヨハネ書を読んでいるならば、第1ヨハネ書の理解がしやすくなることだと思うのです。私は、その見地からこの書を読んでいきたいと思います。
第2ヨハネ書で最も問題にされていたのは、「人を惑わす反キリスト」(7節、第2回参照)とされた人たちです。その問題が第1ヨハネ書でも展開されているというのが、私の見方です。それは特に、2章18~26節と4章1~6節で指摘されていますが、書簡の序盤である今回の箇所においても指し示されています。
4節に「『神を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、その人の内に真理はありません」とありますが、ここで「偽り者」とされているのが、前述の「人を惑わす反キリスト」なのです。第1ヨハネ書においては、この「負」である偽り者の思想を論駁(ろんばく)するかたちで、「正」としての「愛」「真理」「永遠の命」が伝えられているといってよいと思います。
神の内にとどまる
5 しかし、神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。6 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。
6節に「神の内にとどまっている」とありますが、この「とどまる(メノー / μένω)」は、ヨハネ福音書とヨハネ書簡に特徴的な言葉です。ヨハネ福音書15章4節の「私につながっていなさい」のように、「つながる」と訳されている場合もあります。「メノー」が伝える概念は、ヨハネ福音書とヨハネ書簡を通して同じであると思います。それは、「神の愛が私たちの内にとどまり(つながり)、私たちが神の愛の内にとどまる(つながる)」と言い得るでしょう。
ここで、前回お示しした「神・キリスト・人間の関係の図式」における縦の軸の左側の部分を見てください。この「(神の)愛・道・(隣人)愛」という関係は、「イエス・キリストという道を通して、私たちが神の愛にとどまり、隣人愛を実践していく」ことを示しているのだろうと思います。
もっとも、とどまるということは、この図式のどの縦の関係においてもいうことができると思います。それが、「私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1章3節)ということであり、「光の中を歩む」(同7節)ということなのだと思います。
隣人愛
7 愛する人たち、私があなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めです。その古い戒めとは、あなたがたがかつて聞いた言葉です。8 しかし、私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。それは、イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです。
9 光の中にいると言いながら、きょうだいを憎む者は、今なお闇の中にいます。10 きょうだいを愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。11 しかし、きょうだいを憎む者は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこに行くのかを知りません。闇がその人の目を見えなくしたからです。
7節の「あなたがたが初めから受けていた古い戒め」は、第2ヨハネ書5節の「私たちが初めから持っていた戒め」(第1回参照)と同じで、イエス様が最後の晩餐の席で語られた言葉です(ヨハネ福音書13章34~35節)。それは、イエス様が十字架にかけられることによって人々への愛を示されたことに倣って、私たちも「互いに愛し合いなさい」という隣人愛の戒めでした。
8節には「しかし、私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります」とあります。前述した反キリストの偽り者たちが出現している状況にあって、その人たちに惑わされるなという意味で、もう一度書き送ったのでしょう。イエス・キリストという「道」を通して、神の「愛」につながっているならば、隣人「愛」を実践することができ、その人は光の中を歩んでいることを告げているのです。
韻文による勧告
12 子たちよ、あなたがたに書き送ります。
イエスの名によって
あなたがたの罪が赦(ゆる)されたということを。13 父たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが初めからおられる方を
知っているということを。若者たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが悪い者に勝ったということを。14 子どもたちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが御父を知っているということを。父たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが、初めからおられる方を
知っているということを。若者たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが強く
神の言葉があなたがたの内にとどまり
あなたがたが悪い者に勝ったということを。
新約聖書執筆当時の地中海世界には、家庭訓と呼ばれる「生活の心得」が広まっていました(「パウロとフィレモンとオネシモ」第32回参照)。コロサイ書3章18節~4章1節やエフェソ書6章5~9節、そしてこの個所はその家庭訓を模しているともいわれています。そして特にこの個所は、韻文によって記されています。
この個所の修辞的な解釈はいろいろあるようですが、そういったことにはあまり固執する必要はなく、「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」といういずれをも私たち全てに対する呼びかけとして捉えればよいと考えています。神との交わりによって、私たちの罪が赦され、私たちが神を知り、悪に打ち勝つことができるのだということが示されているのだと思います。
ゴスペルシンガーSakiさんの「道=愛」
最後に一つの歌の紹介をして、今回のコラムを終わりにします。沖縄を中心に活動されているゴスペルシンガーSakiさんの、「道=愛」というオリジナルソングがあります。この歌の歌詞には、「道・真理・命」「信仰・希望・愛」という言葉が繰り返されており、私がこのコラムでお伝えしていることと内容的によく重なります。Sakiさんの高音ボイスと相まって、とても良い歌だと思いますので、ぜひお聞きになってみてください。(続く)
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