「私たちは、自分たちが本当はどれほど強いのか気付いていない。悪の勝利に必要なのは、善人が何もしないことだけだ」
これは、16日に北極圏の過酷な刑務所で死亡したロシアの最も有名な反体制政治活動家の一人、アレクセイ・ナワリヌイ氏(47)の言葉である。
ナワリヌイ氏の死因はいまだはっきりとしていなく、遺体は8日たってようやく母親の元に引き渡されたという。彼は昨年8月、「過激派組織の創設」などの罪で禁錮19年を言い渡された。しかし、実際の理由は、ロシアのウラジーミル・プーチン政権を声高に批判したからであると、国際社会では広く理解されている。
ナワリヌイ氏が収監されていた刑務所「IK-3」は、冬場は気温がマイナス20度にも達し、刑務所内の規律も非常に厳しいことで知られている。彼はこれまでに、計300日近く懲罰房で過ごしたといわれている。
ナワリヌイ氏は、ロシア政治の腐敗を精力的に暴いた政治活動家として注目を集めた。彼とそのチームは、プーチン政権にとって厄介な存在であった。そして、プーチン大統領とその側近の個人的な蓄財の証拠を明らかにして以来、彼はプーチン大統領の権力に対する重大な脅威とみなされるようになった。多くの若い支持者がナワリヌイ氏の活動に応答し、2012年の大統領選では多くの人が抗議のために街頭に繰り出した。最終的に彼の反体制活動は非合法なものとされ、過激派組織を創設したなどとして起訴された。
ナワリヌイ氏は、その計り知れない苦しみを通りながらも、ユーモアと皮肉にあふれる言葉よって称賛された。獄中からでさえ、弁護士たちにブラックユーモアのセンスにあふれ、機知に富んだメッセージを送っていた。
その勇気もまた、誰もが認めざるを得ないものだった。ナワリヌイ氏は、ロシアの元スパイを狙った英南部ソールズベリーで起きた毒殺未遂事件で使用された致死性の神経剤「ノビチョク」で命を狙われた後、治療を受けていたドイツからロシアに戻ることを選んだ。そうすれば、ロシアに入国した時点で逮捕され、家族と離れ離れになり、身の安全の保証もないまま収監されることを彼は十分知っていた。しかし、英タイムズ紙の追悼記事(英語)にあるように、彼は「ロシア人が妥協しない者を称賛することを知っていた」ため帰国した。
これは私の友人から指摘されたことだが、ナワリヌイ氏は後年、キリスト教信者であると公言していたという。2021年に開かれた公判の最終陳述で、彼は自分のキリスト教信仰について詳細に説明したと伝えられている。
他の多くの政治活動家と同様、ナワリヌイ氏はもともと――彼自身の言葉を借りれば――「かなり好戦的な無神論者」であり、自身の新しい信仰が、自身の政治活動における友人や協力者たちから嘲笑の的にされていることを認識していた。しかし彼は、聖書の明快さのおかげで肩の荷が下りたとして、次のように語っている。
「しかし今、私は(神を)信じる者であり、それは自分の活動に大いに役立っています。なぜなら、全てがずっと楽になるからです。あれこれ考えなくなりました。人生におけるジレンマが少なくなりました。なぜなら、あらゆる状況においてどう行動すべきかについて、明確であったり、明確ではなかったりすることもありますが、大抵のことが書かれている本(聖書)があるからです。もちろん、その本に従うのは必ずしも簡単ではありませんが、私は実際にそうしようと努力しています。ですから先に述べたように、恐らく私が政治に携わることは、他の多くの人よりも簡単なのです」
ナワリヌイ氏は続けて、イエスが語った山上の説教の一節「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5:6)を引用し、「私は常にこの戒めが、多かれ少なかれ活動に対する指示だと思っています」と述べている。
私は、ナワリヌイ氏の口をふさぎたくはない。もちろん、私は彼を直接知らないし、これは彼に友好的なメディアが伝えた彼の言葉に過ぎない。しかし、聖書の明確な教えの中に、彼は行動の原動力と、その教えが求めることを実行することへの「真の満足感」の両方を見いだしていたようだ。
このナワリヌイ氏の勇気ある姿から、クリスチャンは何を学ぶことができるだろうか。たとえ当局との対立を招き、自身の協力者からも批判や不信を招くとしても、彼は自身の信念に従い、その信念がどこから来たのかを大胆に表明することで平安を持っていた。私たちはそれを、比較的快適な生活を送る中で理解できるだろうか。自身の自由と家庭生活を刑務所での不確かな未来と引き換えてまで、ロシアに戻る飛行機に乗るのに何が必要だったかを想像してみてほしい。
ナワリヌイ氏は忍耐と展望の教訓も示している。彼は生きている間にプーチン政権が崩壊するのを見ることはなかったが、それでもいてつくような獄舎から、弁護士への手紙であろうと何であろうと、持っているものは何でも使って闘う覚悟はできていた。政治に携わる私たちの多くは、私たちの置かれた状況における重大な不公正が永久に終わるのを見るために生きているわけではないかもしれない。それでも私たちは、行動する準備ができているだろうか。
終わりに、詩編2編の言葉を思い出そう。
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。(中略)
すべての王よ、今や目覚めよ。
地を治める者よ、諭しを受けよ。
畏れ敬って、主に仕え
おののきつつ、喜び躍れ。
子に口づけせよ
主の憤りを招き、道を失うことのないように。
主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか
主を避けどころとする人はすべて。
ナワリヌイ氏のように、私たちはたとえひどい状況の中にあっても神の主権という確かな知識に安住し、神が私たちをどこに置かれようとも、また私たちの手に何を委ねようとも、義に飢え渇く決意を固めることができるだろうか。
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