日常生活において、私たちは経済的な支えを必要とするため、社会の求める仕事に就き、信仰者であれば日々の糧のためによく祈ります。この世の富は、生きる上でとても大切な存在になっています。
しかし、私たちがこの世の富に仕えるようになると、信仰を失う危険があるため、聖書は、富との関係について厳しい警告を与えています。
どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。(ルカの福音書16章13節)
「不正の富」によって友をつくりなさい
世界の経済は、人が富に仕えることで拡大してきた経緯があり、全ての紛争の背後に、富を巡っての醜い駆け引きがあります。聖書が、この世の富を「不正の富」と伝える通りです。私たちの日常にも、危険な富の誘惑は存在します。
一方で聖書が、この「不正の富」によって友をつくることを勧めているのも事実です。人の欲が育てた経済力による連携が、天国(永遠の住まい)への扉を開く鍵になることを忘れてはなりません。
わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。(ルカの福音書16章9節)
良いものが残るのではなく、もうかるものが勝ち残る
この世界には、多くの「もの」や「サービス」があふれています。人の生活はこれらのおかげで便利になり、経済が拡大しています。
ところが、長年「もの」づくりに関わった経験から、優れた「もの」が残るのではなく、もうかる「もの」が勝ち残り、世の中に普及していることが分かります。グローバル化の進展により、この傾向は一層顕著になっています。
実際に優れた「もの」であっても、経済効果が薄いなら、たとえ多くの人を支える力があっても注目されずに消えていくものです。
私は、前職に在職中、優れた良い「もの」を数多く発見し、もうかる「もの」に仕上げようと努力を重ねました。しかし大半の仕事において、経済効果のあるもうかる「もの」づくりを優先させなければなりませんでした。
福音宣教の働きに共感し、応援を下さる
このように、「不正の富」に関わる働きは経済効果を優先するのが常ですが、こと福音宣教の働きにおいては異なる状況が生じます。
私は前職を退職後、国内宣教師となり、日本宣教の働きを始めました。宣教の扉を開くため、これまでにない新しい働きを始めたこともあり、スタッフや連携者の皆様に差し上げる給与や謝礼は大変申し訳ないレベルになっています。とても働きの価値に見合ったものではなく、今後の大きな課題になっています。
ところが、この福音宣教の働きに加わってくださる牧師や信徒の皆様の仕事ぶりは、目を見張るものがあります。どれも極めてレベルが高く、誠実で熱心なものばかりです。
さらに、仕事の連携が拡大し、一般の企業との接点が増えると、私たちの福音宣教の働きに共感し、応援を下さる熱心な事業者が増えてきました。
福音宣教は、多くの事業者を束ねる
福音宣教は、人の弱さに寄り添うことによって拡大します。相手の立場で心の痛みに寄り添い、傾聴を続ける姿勢は、福音宣教の基本です。
これまで、このような福音宣教の働きは、教会を中心とする信者によってのみ拡大すると考えていました。ところが、働きを進める中、信者はもちろんのこと、教会や聖書になじみのない多くの方が私たちの働きに共感し、犠牲を払って応援を下さるようになりました。
実は、福音宣教は善良な事業者にとって、優れた「もの」や「サービス」を生み出す模範的な姿勢を示しているように思います。「不正の富」に支配される世の中にあって、福音宣教の存在は大きな希望であり、あらゆる事業を真の成功に導く秘訣になるのです。
「不正の富」(経済力)を忠実に用いた福音宣教の働き
今後、「不正の富」(経済力)を忠実に用いた福音宣教の働きは、地域教会はもちろんのこと、多くの善良な事業者との連携を拡大させ、彼らと共に行う事業を通し、天の御国に希望を抱く多くの友を得ることができると信じています。
地域教会が宣教の最前線であることには変わりありませんが、働きを強力に推し進める協力者は予想以上に、教会外にある善良な事業者連携の中に増えてくるような気がします。
神様が、日本宣教の働きを一層祝福してくださいますように・・・。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。(ルカの福音書16章11節)
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