信仰と宗教の違い
信仰と宗教はよく混同されて使われますが、あえて区別するなら、信仰とは、目に見えない存在をあがめる、人の心のありようを指し、宗教とは、それらの存在を伝える、思想体系や組織を指しているように思います。
日本人の多くは信仰の大切さを知っていますが、総じて自分のことを「無宗教」と考えるのは、大切な信仰に関わることを、人の思想体系や組織に委ねたくない思いが根底にあるような気がします。
宗教間の争いが、いつの時代にも多い
また、日本人の宗教嫌いを助長する要因として、宗教間の争いがいつの時代にも多いことが挙げられます。人の思いが関与する宗教は、リーダーや組織の力を反映した共同体を生みやすく、利害を巡る争いに発展するケースが見られます。
宗教によって結束を強めた共同体同士が、互いの利権を奪い合う歴史を重ねると、紛争の解決が非常に難しくなってしまいます。
信仰は一つしかない
一方、信仰は、目に見えない存在をあがめる、人の心のありようですから、聖書によれば、この世界に一つしかないことになります。なぜなら、本来の信仰は、人の思想や組織の力が生み出したものではなく、創造主からの賜物だからです。人は神様の似姿に造られていますので、全ての人の信仰は創造主をあがめるように導かれています。
主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。(エペソ人への手紙4章5節)
ただ、創造主から与えられる信仰は、人によってその現れ方が異なります。それは、同じ創造主から与えられた体や心の働きに個性があるのに似ています。
つまり、創造主から与えられた信仰をベースに、人が思い上がって宗教を作り出さなければ、人に与えられた信仰はそれぞれの個性を通し、同じ創造主をあがめる心のありようとして、イエス・キリストに導かれていくように思います。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(ローマ人への手紙12章3節)
宗教の衣を脱ぎ捨てると、世界が変わる
私が2014年の春に聖書学校を卒業し、今までにない日本宣教の仕組みを探求し始めたとき、まず、株式会社の設立に導かれました。企業で30年以上、先の見えない研究開発に携わった私にとって、それ以外の選択はなかったように思います。
企業の働きにおいて、こと研究開発においてはあらゆる可能性を制限なく試すことができます。結果として、宗教団体では経験できない働きへと導かれました。
それらの経験を通し、宗教としての教会、教派、教団その他、あらゆるキリスト教の中にある宗教的要素によらず、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ働きを進めるなら、多くの応援者、賛同者、同労者に恵まれることを学びました。
教会外からの応援に感動!
今年の秋、岐阜県の長良川国際会議場にて日本伝道会議があり、私たちはブース展示と分科会に参加しました。多くの収穫がありましたが、ブース展示の協力者として全国の葬儀社ネットワークを束ねる一般企業に参加していただくことができました。
彼らはキリスト教や教会と、ほとんどつながりのないビジネスマンですが、私たちが信仰によって人々に寄り添い、終活や葬儀を通して日本社会に貢献しようとしている様子に共感し、犠牲を払って協力してくださっています。
キリスト教に疎遠な彼らが、ブースを訪れたベテランの牧師に新しい宣教の仕組みを熱心に伝える様子は、大変感動的な光景でした。
また、私たちの働きに参画してくださる信仰者の多くは、その背後に教会や教団などの宗教的な要素がありますが、それらの背景に配慮しつつ、個人的な信仰によって働きに参画してくださっています。一人の人としてキリストの似姿とされ、弱さを抱える人々に寄り添ってくださることで多くの人々が励ましを受けています。
イエス・キリストにある一致
あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3章28節)
私たち日本人は、共同体を大切にする国民です。そして、信者にとって教会や教団は大切な共同体です。しかし、日本宣教を進める上では、宗教を前面にして活動することが、障害になることが多々あります。
「無宗教」を自認する日本人ですが、イエス・キリストに心を向ける人が大勢おられます。彼らに寄り添うため、私たちは宗教の衣をいったん脱ぎ去り、イエス・キリストを信じる信仰によって、一致して宣教の働きに遣わされたいものです。
やがて教会、教派、教団の外から霊的な覚醒が起こり、教会への来会者も次第に増えるようになるでしょう。神様のご計画は、そのように進むような気がします。
愛する日本の上に、神様の祝福が豊かに注がれることを心より祈っています。
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