多死社会を迎えた日本では、年間150万人を超える人が亡くなるため、身近に多くの「死」が存在し、「死」の前後には、さまざまな分野の専門家が当事者やその家族を支えるようになりました。
ところが、それらの専門家たちは分野を超えて連携しない上に、「死」そのものには寄り添えないことが多く、最も不安な「死」への備えが、かえって難しくなっているように思います。
「死」の前後には、多くの専門家が存在する
かつての日本社会には「家制度」があり、人々は家族・親族を中心とする強い共同体である「家」に所属し、その中に日常の暮らしがありました。
「家」の中には、高齢者、病人、さらに亡くなる人がいますから、「エンディング」や「死」に関わることは、全ての人が日常的に体験する出来事でした。「死」に向かう弱さを、お互いが担い合っていたのでしょう。
ところが現代社会では、核家族化が進み、かつての「家」のような共同体は姿を消しました。家族・親族の関係も疎遠になり、夫婦二人だけの世帯や、独居の高齢者が増えました。
足腰が弱り、介護が必要になっても、介護を担える家族がいないことが多く、たとえいたとしても、全ての介護を担うには、負担が大き過ぎます。
大抵の場合、介護保険を利用して介護の専門家に頼り、状況によっては高齢者施設に入居します。また、体調が悪くなると、医療関係者(医師や看護師)を頼るようになります。
そして身体の「死」を迎えると、介護者や医療関係者の役割は終わり、新たな専門家として葬儀社や宗教者、あるいは死後の手続きや遺品整理を担う専門家が関わるようになります。
このように現代社会では、「死」の前後にそれぞれの段階における専門家が存在し、彼らに実務を委ねることで、家族・親族への負担が減っているのは事実です。
専門家は限られた領域で寄り添う
ところが、専門家たちはそれぞれの分野を超えて連携しないことが多く、当事者や家族にとって、次の段階に移る備えが難しくなっている現実があります。
例えば、介護の目的は日常生活の自立ですが、医療の目的は病気の治療ですので、それぞれの分野の専門家によって、考え方や対処法が異なります。介護の領域からいきなり医療の領域に移ると、生活環境の変化に対応できず、一気に弱さを重ねる高齢者はたくさんいます。
また、多くの人が生前から「死」への備えをする必要を感じているのですが、介護や医療に関わる専門家がその分野をサポートするのは大変難しいのが現実です。まして、生前において葬儀社、宗教者(僧侶)、死後実務を担う事業者が寄り添う道は閉ざされています。
結局、最も不安な「死」を迎えるに当たり、当事者やその家族は十分な支えを得られない状況に陥ってしまいます。
キリスト教会に期待される大きな役割
ブレス・ユア・ホームでは2015年から、教会になじみのない日本人に向け、キリスト教葬儀を展開してきました。長い間、仏教の葬儀文化の中にいる日本人に向け、キリスト教葬儀の案内をしていますので、ことの真偽を確かめるような生前相談が多く入ります。そのようなとき、牧師の生前訪問を受け入れてくださるようにお勧めをしています。
死後の葬儀文化を担ってきた仏教と異なり、これまでの福祉や教育の分野におけるキリスト教の貢献が、功を奏しているのでしょう。「死」を目前にした当事者やその家族を訪問し、寄り添えるケースが増えています。
「死」を目前にして介護や医療関係者のサポートが終わろうとしているとき、次のステップである「死」への備えを与え、さらに、その後の遺族を支えることができるのは、キリスト教信仰に支えられた牧師や神父だけなのでしょう。
「死」の暗闇の中で心を開き、神様の愛を受け入れてくださる当事者が、病床洗礼を受け、希望を抱いて召されていく姿は、当時者だけでなく、関わる家族・親族全ての人を支え、励まします。
召された後の葬儀は、感動的なキリスト教葬儀となり、その後も家族・親族と地域教会とのつながりは継続していきます。キリスト教会に期待される役割は、非常に大きなものがあると思います。
キリスト教会が日本社会の弱さを担う
多死社会を迎え、「死」の前後をサポートするさまざまな分野の専門家をつなぎ、新たな葬儀文化を一貫して担えるのは、おそらく地域に存在するキリスト教会だけなのでしょう。
私たちは、そのような潜在性を形にし、キリスト教会が日本社会の弱さを支える働きにおいて主導的な立場を取れるよう、これからも祈りつつ働きを進めていきたいと願っています。
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