私が聖書信仰を持ったのはもう40年も前のことですが、それ以前の20代後半まで、宗教に関わることを極力避け、無宗教の立場を取っていたように記憶しています。当時の私は、どの宗教を通しても真の神は見いだせないと考えていました。
さらに、証明のできない霊の世界を系統付けて語る宗教は、争いの要因になるとも考えていました。確かに、歴史を振り返れば宗教の絡んだ争いが多く、現代の日本社会でも、多くの人がそのことを理由に無宗教を選んでいるように思います。
無宗教の日本人はよく祈る
このように、宗教を避けていた私でしたが、さまざまな人生の節目には祈る習慣がありました。毎年の初詣だけでなく、受験、結婚、妻の出産など、不安を抱える度、心を込めて祈りをささげました。私は無宗教でしたが、自分の祈りは宗教とは全く関係ないと思っていました。
その当時、祈りの対象を意識することはありませんでしたが、大いなる方(真の神)に心を向けていたのは間違いないでしょう。しかし、そのことを考えたり、口にしたりするのは、宗教に関わることなので極力避けていたように思います。
第178回コラム「日本は多神教の国ではない」でも述べましたが、一般の日本人は、自然界の八百万の神、多くの神社や寺院、墓、仏像、仏壇だけでなく、教会や十字架さえも祈りの場(依代)と捉え、意識の外にある大いなる方(真の神)に祈っている可能性が高いのでしょう。かつての私も、一般の日本人として同じような状況にあったと思います。
真の神はどこにも見いだせない
主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さは 測り知ることもできません。(詩編145編3節)
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章18節)
聖書の伝える真の神は大いなる方であり、私たちが見ることも、触れることもできない偉大なお方です。
私たちが聖書信仰によって知り得たものは、偉大な神が解き明かしてくださったことだけであり、それも、私たちが見いだしたのではなく、神が私たちを見つけ出し、導いてくださったことが全てです。
イエス・キリストを信じた後も、私たちにとって真の神は、見いだすことのできない、計り知れない偉大なお方であることに変わりありません。
一方、無宗教の立場を取る一般の日本人も「真の神はどこにも見いだせない」と考えています。確かに、福音を知らないことは大きな違いですが、どこにも見いだせない偉大な神に向かい、節目ごとに祈る習慣を持つ日本人は、聖書信仰を受け入れやすい国民だと思います。
紙一重の違いを除かれる聖霊の働きに期待
99歳になる私の父は、典型的な無宗教を貫いてきましたが、私以上に日本の祈りの文化を大切にし、祈りの習慣に合わせ、黙祷している姿をよく見かけました。
彼は一般の日本人と異なる考え方や行いを嫌っていましたので、私が信仰を持つことも、牧師になることも、日本では珍しいことなので快く思っていませんでした。
そのような父が高齢になり、常時、介護が必要になったため、私はコロナ禍が収束するまで、父と2人で生活することになりました。認知症が進み、体力が衰え、全ての活動に介護が必要な中、私は父の傍らで共に祈る機会を持ちました。
毎朝(毎晩)決まった時間に、同じように心を込めて祈りました。「天のお父様、新しい朝をありがとうございます(今日の一日をありがとうございました)・・・」から始まる祈りは、日ごとの感謝、家族一人一人のため、健康のため、日々の生活が守られるように・・・など、おそらく父が長い人生を通し、祈りの習慣の中で黙祷していた内容に近いものだったと思います。
ただ唯一違うのは、私の祈りは内住の聖霊に導かれ、イエス・キリスト(救い主)を通したものでしたから、天の父なる神様に届く保証がありました。
私は父の表情を横目で確認しながら、父に聞こえるように大きな声で祈るようにしました。父は私の祈りを聴きながら、いつもうれしそうにしていました。私が祈りの最後に「アーメン」と言うと、「よっし」とか「分かりました」とか大きな声を出すこともありました。
認知症になったことが父の心を柔和にし、私の内に住むキリストの霊(聖霊)が、父に寄り添ってくださることを強く感じる時でした。
父の無宗教と聖書信仰の間にある紙一重の違いは、福音を信じる信仰によって埋まります。既に認知症が進み、聖書を知的に理解できない父に対し、計り知れない偉大な神が最善を成してくださると、私は心の中で期待しながら日ごとの祈りを積んでいきました。
父は、人知を超えた神様の大きな愛を受け、永遠のいのちに導かれたことを信じています。
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