信仰者にとって、人生の目標は「神の栄光をあらわすこと」と、度々教えられたように思います。もちろんその通りですが、私は、年齢を重ねるにつれ、もう少し具体的な表現として、「天国を仰ぎ見て生きる」を目標にしたいと考えるようになりました。
なぜなら、これまでの歩みの中で、神を褒めたたえ、天国を仰ぎ見るときにこそ、比類なく充実した勝利の人生を、幾度となく味わってきたからです。
人は、神の似姿として造られたが・・・
人は、神の似姿として造られましたが、神から離れ、死を味わうようになりました。自分の力では、神を知ることも、天国(永遠の世界)を知ることもできなくなりました。
それでも、神を求める人は、自らの英知を尽くし、天国を仰ぎ見ようと努力を重ねました。死後の世界に触れなかった初期の仏教世界にも、やがて、死んだ後の世界が描かれました。
このような経緯から、多くの日本人は救いを求め、死後の世界に思いを巡らします。天国の存在を身近に感じているわけではありませんが、それでも、人は死んだら天国に行くと、漠然と考えているように思います。
一方、聖書に生き生きと示される天国は、現実の存在であり、私たちの思いをはるかに超え、神の栄光が満ちるところです。私たちにとって、この世の営みを終えた後、迎え入れられる約束の地ですが、それだけでなく、信仰を持って仰ぎ見るとき、その前味にあずかり、今の時代を輝いて生きる力の源になるのです。
召される直前に天国を知る
ブレス・ユア・ホーム(株)には、葬儀の生前相談が毎日のように入ります。キリスト教に関心はあっても、教会や聖書になじみがなく、ネット検索で弊社を探し出してくださる方がほとんどです。
依頼の多くは葬儀式に関するものですが、依頼者の不安は葬儀だけではありません。言葉にはされませんが、愛する人がこの世の生を終えようとするとき、本当は天国の前味を知らせたい、知りたいと願っておられるように思います。
そのようなことから、無償で寄り添う「善き隣人バンク」をご紹介し、生前から訪問させていただきたい旨を伝えます。そして、心を込めて寄り添う信仰者の訪問がかなったとき、多くの方が信仰を持たれ、天国を仰ぎ見る体験をされていきます。召される直前に洗礼を受ける方も珍しくありません。
そのような方が、残されたわずかな時間を、天国に心を向け、希望を持って生きる様子は、家族にとって大きな慰めであり、共に天国を見上げるように導かれるのでしょう。
やがて、天国に召されたことを知った家族、親族の中で、初めてのキリスト教葬儀が持たれ、その後、遺族が教会に集うようになることもしばしば起こります。
私たちは、今後このようなエンディングが増え、多くの日本人が天国の前味を知るようになると期待しています。日本の葬儀文化が、大きな転換期を迎えることになるでしょう。
天国を仰ぎ見て生きる
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ人への手紙3章20節)
主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。(テモテへの手紙第二4章18節)
信仰者にとって、天国は、現実に存在する大きな目標であり、希望です。そこには、私たちを命懸けで愛してくださるイエス・キリストがおられ、また、彼を信じる多くの神の家族がいるのです。
見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21章3、4節)
やがて私たちは、彼らと天国で出会い、永遠のいのちの中で、悲しみも、叫び声も、苦しみもない、神の愛に満たされるときを迎えると、聖書に約束されています。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。(エペソ人への手紙1章14節)
私たちのうちに住む聖霊は、天国の希望が確かなことを保証し、その前味を与え続けてくれます。
だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(ローマ人への手紙8章35節)
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(同37節)
たとえ、現実の状況が悪くても、イエス・キリストを信じ、聖霊に満たされ、天国を仰ぎ見るなら、その人の人生は天国への懸け橋となり、神の愛に満ちた圧倒的な勝利が約束されているのです。
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