原爆が投下されて78年が過ぎ、今年も広島や長崎で追悼の式典が開かれました。二度とこのような悲劇を起こしてはならないと、毎年、多くの人が心を合わせ、平和への思いを新たにしています。
被災の歴史を記す資料
これまで、原爆の悲惨さを伝えるさまざまな資料が公開され、平和の大切さを訴える大きな力になってきました。被爆当事者が少なくなる中、体験を語り継いでこられた多くの関係者のご尽力に敬意を表します。
一方、大戦末期、原爆の破壊力が甚大なことを承知の上で米国と英国の指導者が、日本人に対して原爆を複数回投下することを提案した「ハイドパーク覚書」も、貴重な資料として原爆資料館に展示されています。
この覚書は、広島や長崎への原爆投下の引き金になったと考えられますが、その存在すら、私は知りませんでした。今回、ある方を通してこの覚書の存在を知り、その内容に大変驚いている次第です。
ハイドパーク覚書
「ハイドパーク覚書」とは1944年9月、米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相が、米ニューヨーク州ハイドパークにおいて交わした覚書です。その内容の中に、日本人に対する原爆の使用を提案した箇所がありますので、その部分を抜粋し、原文と訳文を紹介します。
(ハイドパーク覚書原文より)
The matter should continue to be regarded as of the utmost secrecy; but when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.(日本語訳)
この問題は、極秘にし続けるべきものである。しかし「爆弾」が最終的に使用可能になったときには、おそらく、熟慮の後にだが、日本人に対して使用していいだろう。日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない。
日本人に使用することへと舵を切る
米国における原子爆弾の開発は1942年、対戦国のドイツが先に核兵器を所有する恐れから始まったといわれていますが、やがて投下の対象に日本が含まれるようになりました。
民間人の住む市街地への無差別攻撃は国際法で禁止されていますが、戦況が進むにつれ、米国の焼夷弾による爆撃は日本の各都市を焼け野原とし、歯止めの利かない状況になっていたように思います。
とはいえ、開発途中にあった原子爆弾の威力は、通常兵器と比べてすさまじいことが予想され、当初、人の住む市街地への投下は計画されていませんでした。
それを、日本人に向けて投下することへと舵を切らせたのが、この「ハイドパーク覚書」です。米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相との自筆のサインの入った短い文章は、実に曖昧で無責任な言葉で始まり、はっきりと日本人の住む市街地への投下と、降伏しない場合は何度でも繰り返すことを提案しています。
曖昧で無責任な言葉
このような極めて非人道的な提案の前提に「it might perhaps, after mature consideration,」(おそらく、熟慮の後にだが)と、曖昧な言葉が添えられています。
原爆投下に対し、この言葉が一定の歯止めになることを期待するのなら「mature consideration」(熟慮)の方針を具体的に示さなければなりません。まるで独り言のように添えられた短い一文は、責任の所在を回避しているだけのようにさえ思えます。
結果として「ハイドパーク覚書」は、ルーズベルト大統領の後を継いだトルーマン大統領によって、熟慮の跡を残すことなく受け継がれ、広島、長崎への原爆投下へと突き進んでいきました。
日本がポツダム宣言を受け入れ、終戦を迎えたことにより、長崎への投下以降、原爆投下は継続されませんでしたが、「ハイドパーク覚書」に記された通り、原爆の日本人への投下はその後も繰り返されるよう準備されていたそうです。
主の御心を悟りたい
当時の米国と英国の指導者が、どのような経緯をたどって「ハイドパーク覚書」に至ったかを調査、分析することは、現代を生きる私たちにとって大切なことだと思います。今後の調査に期待します。
しかしどのような経緯であっても、人の過ちを正すことは大変難しいことだと思います。今後とも常軌を逸した恐ろしい提案が示されることも、また、実行に移されることも十分あり得ると思います。核兵器のリスクが消えることはないでしょう。
主は 人の思い計ることが いかに空しいかを 知っておられる。(詩篇94編11節)
もしそれらの過ちを正し、正義の道に立ち返ることができるとしたら、それは、人が信仰によって神様の御心を悟る以外に道はないのでしょう。なぜなら、人は信仰によってのみ、罪から逃れることができるからです。
ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(エペソ人への手紙5章17節)
神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(ヨハネの手紙第一3章9節)
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