先日、ある男性から、入院中のお母様が危篤状態になったので、病床で祈ってほしい旨の電話が入りました。お話を聴く中、極めて緊急性の高い依頼と分かりましたので、当日の予定を変更し、すぐに駆けつけることにしました。
面会制限の厳しい病院でしたが、牧師の訪問ということで特別の許可を頂き、ご家族に導かれて病室に入りました。お母様は、体力が低下し、食事も取れず、残された時間の短いことは明らかでしたが、意識はしっかりと守られていました。私たちは声をかけ、心を込めて祈り、賛美歌を歌いました。
なんとか会話ができましたので、耳元で「イエス様を信じますか」と尋ねると、はっきりと「信じます!」と応答されました。私はちゅうちょなく、準備してきた洗礼用の小さな器に水を満たし、タオルを借り、病床洗礼を授けました。その後、お母様との会話は難しくなり、翌日、天に召されました。
7年半前の出来事から
実は、今から7年半前の春、同じ男性から、入院中のお父様(召されたお母様のご主人)の葬儀について電話相談がありました。聖書や教会になじみがないものの、賛美歌が好きだったので、キリスト教葬儀の準備をしたいとのことでした。
私は、入院中のお父様の様子を確認し、すぐに訪問したい旨を伝えました。男性は、唐突な申し出に驚かれたようでしたが、私の熱心な申し出を受け入れてくださり、生前の病床訪問がかないました。
病室では、苦しそうに身を横たえるお父様を、ご家族が囲んでおられました。私は、状況を確認し、意識のないお父様に手を置き、賛美歌を歌い、熱心に祈りました。数日後、お父様は召され、ご家族にとって初めてのキリスト教葬儀がもたれました。
神様が養ってくださる
この葬儀から7年半が経過し、今度は、お母様の病床を訪ね、病床洗礼を授け、キリスト教葬儀を司式することになったのです。これら全ては、ご家族の依頼に沿ったものでした。ご家族は7年半の間、教会に集ったことはなかったようですが、感謝なことに、既に信仰に支えられる家族に変えられていたのです。
連絡をくださった男性は、ご自身の家庭にキリスト教信仰の背景があり、その延長としてお母様の信仰が備えられ、召される直前の洗礼に導かれたことを感謝しておられました。7年半前、お父様のキリスト教葬儀以降、神様ご自身がご家族の信仰を養ってこられたように思います。
「死」に寄り添うと、当事者も、家族も救われる
ブレス・ユア・ホーム(株)では、未信者や教会に集っていない信者の葬儀を、これまでに300件程度対応してきました。いまだ潜在的なニーズに十分応えられていませんが、神様の御業を数多く体験してきました。
仏教葬儀文化が浸透している日本ですから、それぞれの家族がキリスト教葬儀を選ぶには、大きなチャレンジがあったことでしょう。葬儀後、彼らがどのような日々を過ごされたか、弊社に入る情報は断片的ですが、信仰を持たれ、洗礼を受けた方や、教会とのつながりを大切にされるようになった方は少なくありません。
中でも、生前の病床訪問が実現した場合、召される当事者が信仰を持ち、洗礼を受けるだけでなく、今回の事例のようにご家族の中で信仰が養われるなど、ほとんどの場合で顕著な宣教効果を生んできました。
3年前に無償で訪問を継続する(一社)善き隣人バンクを設立してからは、長期にわたる生前訪問が可能になり、対象者のほとんどが、弱さの中で信仰に導かれるようになりました。
「死」は、私たちにとって弱さの極限であり、そこに寄り添えるのは、信仰者のうちに住む、私たちの主イエス・キリストだけです。信仰者が「死」を迎えようとする家庭を訪問し、「死」に寄り添うなら、当事者や家族が信仰に導かれるのは当然なのかもしれません。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。(コリント人への手紙第二12章9節)
教派、教団を超え、宣教がおのずと拡大する
私たちの働きは、全てネットや電話の依頼に沿って実施しています。私たちが信仰に基づく働きをしていることを承知の上で、さまざまな地域、立場にある方が、私たちの訪問を依頼してくださるわけです。未信者から宣教の依頼を受けているような感覚です。
しかも、特に長期にわたって寄り添う場合、牧師や信者は、教派、教団を超え、組織的に連携するようになりますので、おのずと超教派の宣教が進むことになります。依頼に沿って行う働きですから、連携を阻む何の障害も発生しません。信者でない方からも、熱心に協力を頂いています。
やがて、日本の各地で宣教が拡大すれば、教会、教団、宣教団体との組織的な連携も、おのずと進むようになるでしょう。その時、日本宣教は一層拡大し、日本は世界で最後の霊的覚醒を体験できるかもしれません。神様の導きに大いに期待したいものです。
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