そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(新約聖書・マルコによる福音書9章36〜37節)
重要事項説明書というもの
現在、保育施設では、利用に際しては、利用者(保護者)に契約書と重要事項説明書の内容を説明、解説し、署名捺印をしてもらった上で、それぞれが一部ずつ持つことを徹底することになっています。これは、現行の子育て支援制度が制定されたときに徹底を求められたことによるものです。
契約書は、契約期間や施設利用に関するルールなどさまざまなことが書かれているため、重要なものだと認識されていると思いますが、それに比べて重要事項説明書はあまり重要視されていないように思われます。どちらも、手交が求められた際、固有名詞や数字などを入れれば作れるフォーマットを行政側が用意していたこともあり、どの保育施設も似たり寄ったりのものになっているのが実情です。
しかし、重要事項説明書は本来、自分たちがどういう体制で、どのような保育を行うかを明言するための書類といっても過言ではありません。内容としては、施設の規模や配置職員数、営業時間、災害対応、感染症対応などの他に、苦情解決システムの説明やクラス構成などが明示されています。
重要事項説明書の価値
重要事項説明書には、もっといろいろなことが書かれている場合もあります。例えば、「〇〇教室(英会話や水泳、サッカーなど)をやります、費用は〇〇円です」とか、「教材費は月額〇〇円徴収します」など、その保育施設独自の取り決めが書かれている場合があります。
では、そのようなことをやっていない保育施設は何も書く必要がないのかといえば、そんなことはありません。重要事項説明書とは、その保育施設が保育に対してどのような志向をしているかを示すものだからです。例えば、「園庭で泥遊びなどをたくさんさせますので、衣服は汚れても良いものを着せてください」などという文面も入るべきです。また、近年問題になっている虐待などに対しても施設の姿勢を示しておくことは大切です。その保育施設の意志や保育の方向性などをしっかりと盛り込むことは、これからの時代、強く求められていくべきものだからです。現在の状況においては、この重要事項説明書こそが、各保育施設の「ドクトリン」として機能することを求めていくべきだと思っています。
子どもを真ん中にする保育?
昨年6月に「こども家庭庁設置法」と「こども基本法」が成立し、今年4月に「こども家庭庁」が発足しました。この時に打ち出されたこども家庭庁のスローガンは「こどもまんなか」というものです。期せずして、日本のキリスト教系保育施設が掲げてきた理念と重なるものであり、やっと社会が追い付いてきたかと思った人も多いと思います。
しかしながら、この「こどもまんなか」というスローガンでさえ、さまざまな受け止め方があるといわざるを得ません。「私たちのまん中にいる幼子(おさなご)をどう受け入れるのか」は、私たちに問われ続ける問いだからです。そして、これまで感覚的に行われてきたものを、具体的にどう形にするかが問われているのです。
何のために保育をするのか
20年ほど前まで、「ただ遊ばせて、食べさせて、排泄させて、寝かせるだけの仕事」と揶揄(やゆ)された「保母」という仕事は、子どもと子育ての専門職と位置付けられ、その名称が「保育士」になりました。それに伴い、保育施設もガバナンス(組織統治)だの、エビデンス(根拠)だのを求められるようになり、保育施設や、保育士を含めた保育職に対する社会の要求も大きく変貌しました。
元来、幼稚園と保育所(保育園)の保育に対する考え方が違っていたことは、「保育施設における虐待はなぜ起こるのか(11)『異次元の少子高齢化』へ向かう中で」でお伝えしました。またその中で、特に3歳未満児保育のスキルの蓄積が不足している保育施設が多いことも指摘しました。ここ10数年間で、子どもや保護者を取り囲む環境や、子ども一人当たりにかかる費用などさまざまなことが変わる中、保育そのものも大きく変貌しました。
子どもと子育ての専門職として保育士が位置付けられたことにより、幼稚園教諭免許と保育士資格を併せ持っている場合は「保育教諭」と位置付けられることになりました。第16回でも書きましたが、養護が教育の下支えをし、教育によって成長を促し、成長によって自立を促し、自立によって養護を本人の生きる力へと変化させ、その生きる力をもって、次世代を護り養う成人を輩出しなければなりません。このような理解と目的があって初めて「こどもまんなか」が実現するのです。
発達は「階段」ではなく「連続」
発達段階という言葉があるからか、発達を階段のように段階的なものと見立てて論じる人を時々見かけますが、発達は階段のようなものではなく、連続です。発達は、さまざまな経験がより合わされた結果として現出します。
例えば、発語が遅かったり、言葉の面で発達の遅れが見られたりするときは、多くの場合、微細運動が劣っていることが多く見られますので、支援として「手先の器用さを養う」というような内容のプログラムを実施するのが支援のセオリーです。これは、脳の情報処理において、言葉を発することと手先の器用さが関連していることが分かってきたからです。
このように、「幼子を幼子としてしっかりと捉える」必要が出てくるのです。これまで論じてきたように、ある発達段階において子どもは、邪悪であったり、反抗的であったり、いたずら好きであったり、うるさかったり、走り回ったりする存在ですが、それはその一つ一つが、その子の発達に対して不可欠なものであることを示しています。それを「どのように保障するか」ということが、養護の神髄でもあります。そして、そこにこそ「こどもまんなか」があるのです。(続く)
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