初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(中略)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(新約聖書・ヨハネによる福音書1章1〜4、14節)
保育には一定の枠組みがある
保育の枠組みは、国が出しているものでは、「幼稚園教育要領」「保育所保育指針」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」があります。これらには、子どもたちの発達の様子から、配慮すべき事項、保育の現場で最低限必要なことまで、あらゆることが網羅されています。さらに、これらの要領や指針に対する解説も国から出されています。
しかしながら、私がコンサルテーションで関わっている保育施設もそうですが、困っていると相談を受ける施設のほとんどは、これらの要領や指針を読んだことがない保育職が多くいます。本来であれば、施設内研修などで周知を図る必要があるものです。しかし、忙しさや現場の都合、さまざまな必要に振り回されて周知できないことが少なくないようです。また、世を広く見回してみれば、施設長や園長、主幹保育士でさえ、これらの要領や指針を読んだことがない人はたくさんいます。
さらに、国連が採択し日本も批准している「児童の権利に関する条約」(通称「子どもの権利条約」)の内容も、ほとんど知られていません。来年で日本が批准してから30年を迎える条約だというのにです。
「施設の問題」では済まされない
最近、学校や保育施設の虐待事件や、有名芸能プロダクション創設者による性加害事件などが報道を賑わせています。特に後者は、国連人権理事会が調査に乗り出すということで、もはや国際問題になってきています。
ところが、虐待が明らかになっても、「施設内の些細な問題が、園児のカバンに保護者が仕掛けたボイスレコーダーで発覚した」という程度の認識の保育施設がまだ多いのが現状です。しかし、これから先はその程度で済む問題ではなく、国際問題にさえなり得る状況になってきていることはしっかりと認識しなければいけません。
そのためにも、これまで「お飾り」と思っていた子どもの権利条約や、それぞれの形態の保育施設に向けて出されている要領や指針にしっかりと向き合わねばならないのです。
憲法が大元を決め、条約が大枠を決め、法令や要領、指針によって、各保育施設が進むべき方向性が指し示されています。逆に言えば、それぞれの保育施設は「施設の考え方」がそれらに合致しているかどうかをしっかり判断する材料を用意する必要に迫られてきているのです。
保育ドクトリン
前回、ドクトリンというものを紹介しました。ドクトリンとは、「教理」「教え」という意味で、原義は「前提とするもの」です。つまり、何かしようとするときに前提となる事柄をドクトリンと言うわけです。
現代は多くの場合、何かをするとき、他の多くの人々と協力して成し遂げようとします。その方が効率的で、狙った効果を得やすいからです。そして、そういう一定の効果を狙う集合体が生まれます。それを組織といいます。しかし、それぞれの認識や方針がバラバラなら、一定の目的にたどり着くことはできません。そのため組織では、目的に向かうためになすべきことを定めることになります。その前提となるのがドクトリンです。保育にもドクトリンが必要なのです。
保育においては、そのドクトリンを構築することが学問であり、それを教育することが養成ということになります。保育職を目指す場合、子どもたちの心理や発達、傷病対応、支援理論、障がいなどについて学ぶことは必須ですが、それらを取りまとめる関係法令なども理解しておく必要があります。これらは、保育をする上で最低限知らなければならないことですから、専門学校や短大、大学で学ぶ必要が出てきます。
しかし、それだけでは満足な保育はできません。少子化や虐待、地域産業の特色が反映される保護者の日常やニーズなど、それぞれの保育施設が置かれている状況に対する理解も必要です。また、地域の保育に対する理解を深める必要もあります。この辺りになると、保育職個人ではなく、各保育施設が取り組むべきものとなります。大雑把に言ってしまえば、保育ドクトリンとは、保育施設が掲げる理念を地域に広げるための指針なのです。
保育ドクトリンに問われるもの
保育ドクトリンを突き詰めていくと、保育を行う側が何を信じているのかが問われてきます。キリスト教系の保育施設であれば、その信仰そのものが問われることになります。
冒頭に、ヨハネによる福音書1章を引用しました。この箇所は、イエス・キリストの存在をどのように捉えるかを言い表しています。ヨハネは福音書を記すに当たり、イエスは「神の言」、つまり、人間としての肉体を持った「受肉した神の言葉」であり、神の独り子なのだと告白することから始めています。
例えば、子どもとはどのような存在か、という非常に基本的な事柄についても、さまざまな解釈があります。「子は(神から親への)授かりもの」という概念はよく耳にすると思いますが、「子は(神から親への)預かりもの」という概念を持っている人もいます。あるいは、「子は親の分身」とか「子は親の所有物」と考える人もいるでしょう。こうした違いがある中、専門職であれば、自分が所属する保育施設ではどのように考えているのかをしっかりと示すことが求められるのです。
国や世界が子どもを大切な存在として扱うことを重視する中、キリスト教系の保育施設であれば、ほとんどの施設が「神様に愛されている子」という概念を持っていると思います。キリスト教では、子どもを大切にすべき理由を、神の愛に求めているわけです。
では、その「日本国憲法と子どもの権利条約で保護され、神様に愛されている子」をどのように保育するのか、そういうことが問われているのです。当然、子どもには保護者がセットになって付いてきます。保護者はどう受け止めるのか、また、子どもが育つ環境はどうか・・・。こうした事柄を、それぞれの保育施設が組織として精査しなければならないのです。
保育ドクトリンを提示する重要性
少子化のこの時代、一人でも多く利用者を確保できるか・できないかが、保育施設にとって死活問題だという理解が広がっています。そこで、安易な経営コンサルテーションが出てきて、「水泳やサッカー、英語などを保育に導入しましょう」「園バスを導入しましょう、園バスはキャラクターバスがいいです」「建物をおしゃれな感じにリフォームしましょう」といった提案がなされます。そして最終的には、これらを全ての保護者に対してアピールすることが生き残りの手段だという認識が生まれます。
しかし、現実はそう甘くありません。保護者の要望は青天井だからです。これが悲劇を生むことになります。20年ほど前まで、保育施設は地域から信頼されており、また、保育所不足による売り手市場の状態にあったことから事なきを得ていましたが、現代は違います。クレームの嵐に飲み込まれる保育施設も多くあるのです。
たくさんの保護者に「選ばれる」ことを目的とした経営戦略は、現場の保育職が担いきれないほど多くの保護者の要望を具現化してしまいました。だからこそ、保育施設は今、何を信じ、どう考え、何を必要とし、どんなことをするのかを、しっかりと形にして提示することが求められているのです。(続く)
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