安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 彼らは、これに対して答えることができなかった。(新約聖書・ルカによる福音書14章1〜6節)
「お約束」という律法主義的な考え方をどう回避するか
前回、教育の歴史を振り返りましたが、各時代の教育に共通しているのは「完成像ありき」の姿勢だと私は理解しています。教育の目的が、究極的には「20代で完成された人間にすること」になっており、それを達成するために、さかのぼって必要なスキルを学ばせる設定になっているように受け取れます。ですから、発達段階が追いついていないためにできないことも「適正なし」となっていきます。そして、「お約束」が守れなかったり、カリキュラムについていけなかったりする子どもは、「問題児」ということになります。
前々回に、「子どもは並べて死人テストに耐えられない」「じっとしていられず、騒ぎ、走り回り、いたずらをするのが子どもだ」ということをお伝えしました。このことは、とても大切なことで、少し意地悪く言えば、「子どもは子ども故に邪悪な側面を持つ」ということでした。しかしその一方で、保育士が学ぶ虐待対策や保育研修の多くが「ハウツー方式」になってしまっていることも指摘しました。その結果、生じるのが「お約束」です。
子どもと事前に「お約束」をし、それを守ることができなければ、叱ってもよいと勝手に解釈し、保育や子育てに当たる人を多く見受けます。結果、自分の敷いたレールに乗れない子どもたちの姿に落胆し、いら立ち、結果として不適切な保育に向かってしまう事例が後を絶ちません。
冒頭で紹介したルカによる福音書14章1〜6節では、そのような考え方に凝り固まっていた当時のユダヤ人たちに対してイエスが語りかけています。
「お約束」は「その子ができることの確認」でしかない
よくある勘違いとして、「発達はその年月齢に応じて自動的に起こるもの」というものがあります。そして、そのような勘違いをしている人たちは、「この年月齢でこれができないのは発達障害のせい」と思い込んでいる向きがあります。しかし、「発達はその年月齢に応じて自動的に起こるもの」という考え方には、前提条件があることを見過ごしている人が極めて多いことを付言しなければなりません。その前提条件とは、「理想的な環境において」というものです。
さて、先に触れた「お約束」は、その子(たち)ができることの確認です。もっと言えば、「その子(たち)ができることを思い出させる行為」でしかありません。子どもであっても、考える力を持っていますので、必要な場面に自分の持っているスキルが適用できるのであれば、それを実行できます。「お約束」は、そのスキルを実行するタイミングや期間を示す行為です。例えば、「泣いている子がいたら知らせてね」などは1歳児でも多くの子ができます。しかしながら、「泣いている子がいたら助けてあげてね」となると、話は違ってきます。「助ける」というスキルがなければ、助けるとはどういう行為なのか分かりませんから、いろんな好ましくない行動も出てくるかもしれません。
ですから、「お約束」を保育に取り入れるためには、1)「お約束」によって求めることが死人テストをパスしているか、2)「お約束」で必要となるスキルを対象児が獲得しているか、3)「お約束」の時間や回数が適切か、というようなたくさんの検証が必要になります。「お約束」で保育を回そうとするなら、小さな「お約束」を一つずつしっかりと定着させ、それを組み合わせることが必要になります。
保育士が、このような「お約束」の前提条件を分かっていなかったり、適切な「お約束」を設定するスキルを持っていなかったりする場合、子にとっては「お約束」そのものが「?」となってしまいます。また、「できること」は集団か個人かでも変わってきます。「できる」子たちを集めれば、集団でもできるのかというと、そうとは限りません。
テレビ番組のヒーローもので、「みんなと〇〇ライダーの約束だ」といったせりふを聞くことがあります。「お約束」を実行できるかどうかは、結局は対象児たちがそれを「実行したい」と思えるかどうかにかかってきます。そして多くの場合、それには憧れの存在が不可欠です。3歳以上児を見ていると、例えば、「〇〇選手のようになりたい」「先生にかっこいいって言われたい」というのがモチベーションになっています。
「お手伝い」から「お約束」へ
それに対して、1、2歳児であれば、「憧れ」ではなく、周りの人とのコミュニケーションが、「お約束」を実行するモチベーションになります。この頃は、スキルはコミュニケーションの手段として使用されます。保育者の関心を引くため反射的にかわいらしい笑顔を見せること(微笑反応)をきっかけとして、どんなことをすると喜ばれるのか、自分のしてもらいたいときにはどうすればよいのか、といったことをたっぷりと学んでいく中で、「お手伝い」の欲求が出てきます。これが「お約束」の基礎になります。そして、その「お手伝い」とは保育者をまねて、一緒にやろうとするところから始まるのです。
「わ〜、ありがとう!」と大げさに喜ぶと、一瞬びっくりしたような顔をして、それから笑顔になるシーンを見かけます。これは、「お手伝いをすると自分が大好きな人が喜ぶ」ということを知った瞬間です。こうなると、「もっとできることはないかな」と、さらに保育者を目で追い、まねようとするようになります。
養護とは「モチベーションを下支えすること」
学校の教職に、養護教諭という職種があることをご存じの人も多いと思います。いわゆる「保健室の先生」といわれる職種です。「養護」とは、「対象者が、日常生活において不都合がないように、また自力で生活ができるように支援・教育すること」とされ、養護教諭は、学校内における在学生(幼児・児童・生徒)のけが・疾病などの応急処置や健康診断・健康観察などを通して、在学生の心身の健康をつかさどります。このように、学校であっても、保育施設と同じく、子どものための施設であれば養護が必要であり、それが教育と一体化しています。
養護とは、学校や保育施設などで、対象児の発達に基づいて自力で生活できるように支援することですが、これはすなわち、彼らのモチベーションを下支えすることです。そして基本的には、対象児それぞれが意欲的に学校や保育施設で生活できるよう支援するため、家庭の事情や生活の様子などを注意深く観察しつつ、障壁となっているものを排除したり、障壁を乗り越えたりすることを手助けすることが求められます。(続く)
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