子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」 これは約束を伴う最初の掟(おきて)です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章1~4節)
教育の変遷
「真似(まね)ぶ」が「学ぶ」の語源であるということを耳にしますが、赤ちゃんの教育は、親のまねをすることから始まります。「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、三つ子(満年齢で1~2歳)に表れた性質は、教育を受け、大人になって経験を積んでも、なかなか変わらないものです。満2歳までの間に家族からたくさんの刺激を受け、それが人生の基礎となり、その人の一生を通す芯になっていきます。さらに、それを土台として祖父母や親族と関わりが生まれ、また地域の共同体に徐々に参加し、役割を担う中で、その共同体における必要な知識や技能を身に付けていくのです。
しかしやがて、それだけでは不十分なように感じ始めます。「専門的な知識を学ばせたい(学びたい)」という要望が出てくるようになります。そこで、長老、物知りなどに教えを請うことになります。そしてできたのが、寺子屋のような組織です。「読み・書き・そろばん」などが効率的に教えられるようになりました。また、その中で特に優秀な子に関しては、領主や富豪などに紹介され、資金援助を受けてさらに勉強を深めさせるというのが、中世までの一般的な教育でした。
教育とは一体何か
現代日本では、教育は義務であるというのが大原則です。そのため、国は義務教育期間を設定し、6歳から15歳までの9年間、子どもに教育を施すことが義務とされています。そして、それを保証するために、全国津々浦々に小中学校が設置されています。
学校制度は、実は国の要請として開始されたものです。つまり、国民に生きていくための最低限必要な知識、規範、技術などを学ばせることは、国家にとってはとても大切なことだったわけです。このことは、産業革命によってさらに加速していきます。工場労働においては、均質な人材が最も効率的なので、そこに力点を置いた教育が展開されていくようになります。一方で、社会性や対人関係などについては、依然として家庭や地域に委ねられていました。
産業革命が拡大し出すと、今度は強い軍隊を持つ必要に国家は迫られるようになります。均質な人材は軍隊でも非常に重宝されますので、教育はいきおい、全体主義的なものに傾いていくことになります。誤解を恐れずに言えば、実は、私たちがイメージする学校教育は、このような時代の洗礼を受けているわけです。
戦後、この教育システムを否定する動きが即座に始まりますが、徹底的に破壊し尽くされた日本では、教育論の検証などはすっ飛ばされ、全体主義的な部分を墨で塗りつぶした「墨塗り教科書」を使わざるを得ませんでした。そもそも、教師が足らず、代用教員などに頼りながらも、その貴重な教師すら戦場に送っていた日本では、言われた通りのことを言われた通りに教えざるを得なかった側面があります。私の祖母は、戦中まで代用教員でしたが、戦後、それまで教えてきたことと正反対のことを教えるように求められたことに倫理的に耐えられずに辞めたと言っていました。
戦後教育の歩みをざっと振り返る
戦後教育と一括りにいっても、「教育」そのものに対する国民の理解の変遷に合わせて、その内容は変わってきました。例えば、多くの人が「使う場面はほとんどないのに」と疑問を持ちながら学ぶ数学の微分積分は、「数学的な思考方法を身に付つける」ために学ぶそうです。「なるほど」とは思いますが、自分の人生を振り返ってみると、当時は数学的な思考方法を学ぶというよりも、テストの点をどうやって上げるかということに苦心していたことを思い出します。これは、私の世代あたりまでは、「教育システム=選抜システム」だったことを示しています。義務教育期間を経て、高校、大学と序列化された学校制度の中にあって、そのどこに食い込むかということに集中していたわけです。
一方で、私の一回り上の世代の間では、大学生時代の反戦運動から始まった「闘争」がブームとなっていました。近所にあった国立大学の寮の前に、機動隊のバスがちょいちょい張り付いていたのを覚えています。これに対し、大学に行かなかった人たちは、休日出勤、サービス残業が当たり前の「モーレツ社員」として、国の経済を支えていきます。このように、高学歴者と低学歴者の間には、自然と価値観の違いが生まれてきた時代でした。そのためか、当時の子どもたちは「落ちこぼれ」という言葉におびえていました。一方で、自分にはできないアウトロー的な生き方に格好良さを覚え、「ツッパリブーム」や「暴走族ブーム」なども起こりました。
私が大学生の時、突然、東西冷戦が終結しました。すると、冷戦構造崩壊によって生まれた新しい市場を目指して、国際化が急務とされるようになりました。国際化には宗教の専門教育を受けた人材が必要だということで、私がいた同志社大学神学部には求人が殺到し、同級生たちは名だたる企業から内定を5、6件も取っていました。しかし、彼らが卒業したのと同時に、バブルが崩壊しました。就職と同時に会社で居場所を失う羽目になった友人も大勢いたと聞きます。
そして訪れたのが、就職氷河期です。真っ当に就職することが奇跡というような状況が、そこから10年ほど続きます。この頃になると、「日本人は個性がない」を合言葉に、個性を伸ばす教育を目指した「ゆとり教育」が始められ、日本独自の教育からどう脱却するかという論議が真剣に行われるようになっていきます。また、それまでは週6日(土曜日は半日)であった登校日を週5日とし、週休2日制にすることも併せて行われました。そうこうしているうちに、日本の少子化が顕在化してきます。子どもの数が見る見る減っていき、学校は「教えてやる」から「学んでもらう」スタンスにシフトしていきました。
そして、ここ10年くらいは、道徳性や地域性、子どもの人権などを重視することが求められています。私が認定こども園の園長になったときに盛んに論議されていたのは、「園児を呼び捨てにするべきかどうか」ということでした。~君・~さん派、~ちゃん派、呼び捨て容認派、あだ名・ニックネーム派など、さまざまな主張がありました。
そんなことを経て今に至ります。現代では、少子化とそれに伴う財政悪化をどう食い止めるか、頻発する虐待問題にどう対応すべきか、といった問題があります。そして、最大の問題としてあるのが、障害児をどう受け入れるかで、現場はこうした問題に右往左往しています。
分断される価値観
私の半生を振り返っても、教育はしっかりと定まったものではなく、実は右往左往してきたものであることがうかがえます。そして、それはその時々の教育職や親、そして全ての大人の対立を静かに増大させていきました。
「子どもを厳しくしつけるのが教育」「子育てに必要なのは愛」「自己肯定感を高める」「子どもの才能を開花させるために」などのお題目ばかりが飛び交う一方で、一歩引いて見ると、当の子どもたちの幸せを、本当は考えていないように思えてなりません。
コンテンツ化してしまった人の価値
園長時代、クリスマス会のあいさつの中で、「子どもは資源でも、投資対象でもありません。守り、愛すべき対象です」と語ったところ、多くの保護者に感動をもって受けとめられました。当時は「人材育成」という言葉が飛び交い、どうやって優秀な人材として子どもを育てるかというような論調が鼻についていた頃でした。
では、今、語られている言葉はどうでしょうか。
メジャーリーガーの大谷翔平選手や将棋の藤井聡太棋士、ボクシングの井上尚弥選手など、さまざまな若手が世界一をつかんでいます。ユーチューバーとして億単位の年収を誇る若者や、活躍する種々多様なアイドル。彼ら、彼女らの活躍を見せつけられ、多くの親はこんな妄想にとらわれ始めています。「わが子の可能性を一刻も早く見つけて、それを伸ばさなきゃ。それが親の務めなんだ」と。
そもそも、教育とは人一人が生きていくために必要なものを授けるものだったはずです。しかし、今、多くの人々が考える教育とは、「コンテンツとして完成された人間の育成」という感じがしてなりません。(続く)
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