不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(35)
※ 前回「そもそも預言は聞かれたのか(その2)」から続く。
キリストの降誕を祝う季節が来たが
「私たち自身がキリストを宿しているのです。逆にいえば、私たち自身もキリストと共にマリアの胎に宿っていたのです」と書けば、どのような反応があるだろうか。まあ、これは思いつきで書いただけの文章なので、くどくど説明するつもりもないし、ただの言葉遊びにすぎない。私たちはキリストを宿せないし、キリストと共に宿ることもできないと考えるのが「正常」であろう。
しかし、言葉は使いようであって、私が書いた思い付きについても、真剣に向き合う人もいれば、腹を立てたり、怒ったりする人もいるだろう。言論の自由を盾にして好き放題をすれば、きっと痛い目に遭うのである。まあ、そういう経験もしてきたが、仮に表現の自由があるとしたら、鑑賞の自由もあるわけで、ついでに言えば、干渉の自由もある。人間の言論などというものは、実にきわどい状態で、あっちに行ったり、こっちに行ったりしているのだ。できれば、悪意を持って表現せず、悪意を持って解釈せず、が良いのではなかろうか。
投げやりになってきたが
本論に戻るが、今回はエレミヤについて少しは悩もうかとも思ったが、他者のことで悩むより、自分のことはどうなっているのかと、そっちの方が深刻になってきた。どうも冬というのは厄介だ、実に気が滅入(めい)る、と今年もそう思うわけである。
そもそも神のお告げを知らせるというのは、病的な何かと紙一重である。紙一重のところで何とかとどまっているから、預言者なのだろう。聖書と名付けられた本をネタに、言いたい放題しているわが身に比べれば、悲劇の預言者と呼ばれるエレミヤの方が、いくらかマシだと思えるようになってきた。まあ、それだけで大成果だと思うわけである。
エレミヤは、ユダ王国が戦争に負けてバラバラになってしまうことを預言した。それが神の意志であり、ユダ王国の人々の行く末は真っ暗闇であると語ったのがエレミヤの預言だ。
とはいえ、戦争に負けそうなのは、エレミヤがゴチャゴチャ言わなくても分かりそうなものではある。「いや、そんなことはない。神の民には最終的な勝利が約束されているのだ」と言われたら、「はい、そうですよ」と私は答える。ただし、その「最終的」がいつなのかが分からないという、まさにその点においてこそ、人間の実存の真実があるのであるが。
まあ、そういうひねくれたことを言いたくなるのも、平和の祭典とか言いながら、何をやってもちっとも盛り上がらないご時世なのだから致し方あるまい。どんな正義を掲げても、それを受け止める人々が盛り上がらないなら、やはりそんな正義はどこか歪んでいるのであろう。
「愛しています」と書いた手紙が、ことごとく失敗に終わった人生を振り返りながら、結局は愛していなかったかもしれないと遠い目で語るがごときである。愛していても、それが伝わったからこそ失敗したということをまるで考えようとしない。全くもって自己本位的な何かであろうか。「あんたには愛されたくないし、そんな愛はとっとと捨ててくれ!」と思うその心情こそが、保障されなければならない自由なのだ。そこらへんを都合良く考えて、愛しているなら何とかなるでしょう的な思い上がりに喝を入れておきたい。
神は「愛しているなら何とかなるだろう」と考えるほど楽天家ではないと思うのだが、どうであろうか。エレミヤは、一生懸命に言葉で伝えようとして、多分伝わったからこそ否定されたのだ。負けると悟った戦を耐え忍ぶ王宮は、どこかの政府と同じとは言わないが、少なくともエレミヤ以上に何かを真剣に考えていたのだろう。戦っている途中で、形勢不利を悟った段階で幾ばくかは「神意」についても考えたはずだ。
しかし、真剣に考えたらそれでよいというものではないのだ。うまくいかないから撤退するぞ的な生き方を考えた方がよかったのである。間違っていても一生懸命だったからそれでよいじゃないかというのは、個人的なレベルでも考え直した方がよいかもしれないのだ。常に撤退、退却を考えることが必要だ。でなければ、国家運営などしない方がよい。
負け戦を耐え抜く。それは自分に酔いしれているだけかもしれない、と思った瞬間に、自分の人生を否定しているように思うのは私だけではないだろう。負け戦を戦い抜くなら、「酔いしれ続ける」しかないのだ。それがエレミヤという預言者ではないのか。結局のところ、ジタバタするのはものすごく生きている感はあるが、ジタバタせずにあっさり退却できる人生というのは、やはり神の知恵である。
神からお伝えいただかないとダメじゃんと思うのであるし、そりゃ簡単にはお伝えいただけないだろうとも思う。であるなら、この際、神の知恵に生きるより、エレミヤや、あるいは彼の政敵だったかもしれない、宮廷の人たちに共感していくのもキリスト教的な精神ケアだと思う。スピリチュアルケアとは、人間を超越することではなく、人間の回復がその目的だからだ。
神は見届けてくれるのか
神のお言葉が十分に伝わらないのは、天地創造からずっと変わらない。後悔、後悔、また後悔が人間の歴史ではあるが、それでも聞いていればよかったと思えるだけマシなのだ。そういう意味でエレミヤ書が存在していることは正しいわけである。それでも「えー、僕らが悪かったんですか」と、われわれ人間はどこまでも神に異議申し立てをするのであるが、悪いものは悪いのだとはっきり伝えられるのも人生の華である。
死ぬまで自己賛美、自己礼拝に終始してしまうような人間であっても、「死ぬときぐらいは黙って話を聞け」と神に言われれば、その気にもなろう。あるいは「死ぬときぐらいは言いたいことを言う」というのも自己ケアではあるが、家族にとっては安らかな最期にはならないかもしれない。ならばやはり、本人にとっても結局はよいことではなかろう。
エレミヤ書にしても、バビロンでの捕虜生活を終えて、エルサレムに神殿が再建されるまで、その価値は分からなかったであろうし、まして読む気にはならないだろう。滅びに直面している人間が、神の言葉を聞けるとしたらいったいそれは何であろうか。
「お前が悪いからお前は滅びるのだ、いや私が滅ぼすのだ」という言葉は、案外と悪くないかもしれない。一番切ないのは、滅びを目の前にして、神は知らん顔をしているという絶望感なのだ。「やれやれ、捕虜生活も終わったし、新しい神殿もできたし、エレミヤの預言でも読んで反省しよう」ということであれば、多分反省にはならないであろう。「お前が滅びるから、私はお前を見届ける」とおっしゃる神の言葉は、新しい神殿を目の前にしてはそれこそむなしいのだ。
それでも神の関わりを少しは信じようではないか
理由があって滅びるわけであり、またその結果として死ぬのだ。理由がないとなると、死ぬ気にはならない。それこそ無常ということになる。その理由を知りたいとは思わないが、それでも神が意図しているということは分った方がよいのかもしれない。全ては神の思(おぼ)し召しなのだと口にできる人の心情は計り難いが、そうありたいと今日はそう思うのである。
神も仏もいないのであれば、滅びも死も我慢ならんではないか。そこまで極端に言わなくてもよいのだが、個々人に訪れる不幸はたまたまそこに訪れているとしか思えないが、でも「それはたまたまの偶然ですよ」という言葉には全く慰めがない。それは、わざわざ聞かされるべき言葉ではないのだ。
善人の上にも悪人の上にも雨は降るのであるが、何もこの私に不幸が降り注ぐ道理はない。しかし、道理がないというのが一番厄介なのだ。実はとてもやるせない。「神よ、私にはあなたが悪いように思えるが、それでも私はもっと悪い、のでしょうね」と神に言えばよろしいのか。それとも「それでもあなたが関わっておられるなら安心します」と言える方がよいのか。宗教的に見るならば後者であろう。
こういう時は「御心のままになしてください」と祈ったイエスの姿を思い出したりもする。とにかく、われわれは、何事にも神は関わっていないとすることが、心を病んでしまう一番の原因ではないかという気がする。神が関わっているけれども、「この程度の人生か」と憎たらしいことも言いたくなるが、神が関わってこの程度なら、それもまた味わい深しである。エレミヤの預言というのは、実はそういうことではなかろうか。冬に気が滅入るのも神の思し召しなのだ。(終わり)
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