標高の高いエルサレムから北東に20キロほど下ったところにエリコという街があります。古くから栄えた街で、新約聖書の時代にも、交通の要衝として賑わっていました。イエスは、3年半の公生涯の最後に、エルサレムで十字架にかかりましたが、その数日前、弟子たちと共にこのエリコを訪れました。メシア(救い主)を待望する大勢の群衆が、イエスのうわさを聞いて集まっていました。
過ぎ越しの祭りが近づく中、祭りの最中に暴動が起きることを恐れたユダヤの指導者たちは、既にイエスのメシア性を否定し、殺害の機会を狙っていました。一方、イエスの弟子たちは、イエスがメシアとしてエルサレムに入城し、新しい王になると思い込んでいましたので、そばで大臣になることを夢見ていました。また、大勢の群衆は、ローマの支配からイスラエルを復興させる力強い王の登場を、イエスに期待していました。
ザアカイはイエスがどんな方か見ようとした
このエリコの街にザアカイという名の取税人が住んでいました。彼は、ユダヤ人でありながら、ユダヤを支配するローマ帝国に寝返り、ローマの税金を不正に徴収して自らの財を肥やしていましたので、ユダヤ人の中では、売国奴のレッテルが張られ、典型的な罪人とされていました。
そんなザアカイが、なぜイエスに興味を持ち、どんな方か見ようとしたのか、聖書には記されていません。しかし、後の彼の行動から、弟子たちや群衆のような期待ではなく、罪人である自分自身の救いを、密かにイエスに求めていたように思います。
彼は背が低かったと記されていますが、おそらく、税金を徴収する際には、ローマの権威を身に着け、背を伸ばして胸を張り、こわもてで街角に立っていたのでしょう。しかし、イエスを一目見たいと願った彼は、群衆の目を気にすることなく、まるで子どもように、イチジク桑の木に登りました。
背の低いザアカイでしたが、木の上からイエスの姿をはっきりと見ることができました。彼は食い入るようにイエスを眺めていたことでしょう。すると突然あり得ないことが起こりました。驚いたことに、イエスはザアカイの登った木のふもとで歩みを止め、ザアカイを見上げ、声をかけたのです。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカの福音書19章5節)
イエス・キリストはザアカイを探して救うために来た
ザアカイの全てを知っておられたイエスは、彼の家に泊まることをあらかじめ決めておられ、彼を探してエリコの街を歩いてこられました。そして、木に登った彼を見つけ、彼の名を呼び、家に泊まらせてもらうことを申し出たのです。
売国奴として誰からも軽蔑され、嫌われていたザアカイには、訪ねてくる友人などいなかったことでしょう。彼は財を肥やした金持ちでしたが、心の中は貧しさで覆われていたに違いありません。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイの福音書5章3節)
イエスの言葉は、ザアカイの心の貧しさに届く輝きを放ちました。彼は、イチジク桑の木から急いで降りてきて、大喜びでイエスを迎えました。その日、ザアカイはイエスと共に過ごし、神様の愛に満たされる至福の時を得たことでしょう。
スピリチュアルペインに寄り添う
スピリチュアルペインとは、心の内に抱いている理性では解決できない痛みを指し、その源には、神様から離れることによって生じる罪責感があります。このような痛みは、全ての人が抱いているものですが、それに気付いて救いを求める人こそ「心の貧しい者」であり、神の国への招待を受ける幸いな人といえるのでしょう。
人の子(イエス・キリスト)は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカの福音書19章10節)
イエスは、ザアカイの心の痛み(スピリチュアルペイン)を知り、失われていた彼を探して見つけ出し、寄り添ってくださいました。神様から離れていた罪人のザアカイは、救い主(メシア)イエスによって救われました。
イエスの訪問を受けたザアカイは、それまでとは全く異なる人生を歩み始めたことでしょう。それは、自らの財を肥やす人生ではなく、天に宝を積む神の子どもとしての歩みになったに違いありません。
ザアカイは立ち上がり、主(イエス)に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」(ルカの福音書19章8節)
心の貧しさを、神様の愛で満たしていただいた人は、真に幸せな人生を送ることになるのです。
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