私には、心配の材料となるものがたくさんあります。広く人間関係を持つことはさまざまな良い面もありますが、その半面、時間も取られるし、疲れます。人間関係以外では、経済や健康などで心配の材料があります。
なぜ「心配」ではなく「心配の材料」としたかというと、心配の材料は、心配に変えることも、信頼に変えることもできるからです。「心配」と「信頼」の違いは、「ぱ」と「ら」の違いですが、この言葉をつなげると「パラ」になります。
新約聖書の原文で使われているギリシャ語で「パラ」は、「傍らに」という意味です。聖書で三位一体の神である聖霊は「助け主」や「慰め主」と訳され、言葉に「パラ」が入っています。「パラ・クレートス」といいます。「クレートス」は「呼ばれた者」という意味です。
「聖霊」は、私たちの傍らに立ち、私たちを呼んでくださる、呼び寄せてくださるお方なのです。
また「傍らに立つ」とは、もともとは弁護士を意味する言葉です。弁護士は、裁判に訴えられているときに、被告人の側に立って弁護をし、無罪を主張したり、刑が軽くなるように情状酌量を求めてくれたりします。後になって一般的に、助言をしたり、慰めてくれたりする人も指すようになりました。
聖霊は神であり、いつも私たちと共におられます。私たちが困った状況にあるときには弁護してくれますし、助けてくれます。傷つき、落ち込んでいるときには、傍らに呼び寄せて慰めてくださり、迷っているときには助言を与え、優しく導いてくれます。
「心配」と「信頼」を分ける分水嶺は、聖霊なる神と共に歩むのか、否かです。
どんなに多くの大きな心配の材料があっても、神と共に歩み、神に頼り、委ねるならば、信頼に変わります。赤ちゃんが母親の胸に抱かれて安心し切っているような状態です。
しかし、どんなに有能で人生経験が豊富な人でも、神を信じないならば、心配の材料の前には形無しになります。神を信じない、神に祈らない、神に頼らないならば、神ではなく神の実力もない自分が、神の役を担うことになります。
能天気で楽観的な人でも、窮地に追い込まれ、身の危険を感じたときには、取り乱し、全くの無力になります。皆さん、これが人間の本当の姿です。
「人間は、神より少し低く造られた」と聖書は語ります。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:5)
人は、神と同じ性質を持っています。神に似ている存在なのです。しかし「神よりいくらか劣るもの」とは、神に頼らなければ生きていけない存在であるという意味です。
人間が修行し、心がけ次第で強く、神のように全能の存在となれるなら話は別ですが、神に頼ることを教えない宗教は、診療能力や治療能力のないやぶ医者みたいなものです。人をだましてお金を巻き上げる悪徳病院のような宗教も、ないわけではありません。
キリスト教は、宗教ではありません。神と共に生きる生き方を教え、神と共に生きる道です。キリスト教の本質は、キリスト道なのです。その道をあなたも生きてみませんか。心配の材料は、神への信頼に変わります。
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